車智澈
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車智澈 (チャ・ジチョル) | |
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各種表記 | |
ハングル: | 차지철 |
漢字: | 車智澈 |
発音: | チャ・ジチョル |
日本語読み: | しゃ・ちてつ |
車 智澈(チャ・ジチョル、1934年11月6日 - 1979年10月26日)は、大韓民国の軍人・政治家。
後に大統領警護室長となり、朴正煕暗殺事件で朴正煕大統領と共に金載圭KCIA部長に射殺された。
生涯[編集]
京畿道利川郡麻長面の農家に生まれるが、経歴上は京城府(またはソウル特別市)出身。朝鮮戦争には学徒兵として出征。韓国陸軍士官学校11期の試験に落ちた後、陸軍甲種将校砲兵幹部候補生として少尉となり、アメリカの陸軍士官学校(ウェストポイント)に留学。1959年空輸特戦団(韓国軍の空挺部隊)に配属された。その後、再度米国に留学、ジョージア州ポートベニングのレンジャースクールで降下訓練を受ける。ある時、韓国軍留学生たちは米軍兵士と2人一組でペアを組み、M60機関銃を交互に担いで深夜ワニの住む沼を一周するという訓練を受けた。しかし車はペアの米兵に暴力沙汰を引き起こしてしまう。一時は連帯責任で留学生全体の帰国まで危ぶまれたが、米兵が車との連携を怠っていたことが認められ、処分を免れた[1]。
1960年に帰国して大尉に昇進、第1空輸団の中隊長となる。またこの頃朴正煕少将と知り合う。翌1961年には朴正煕の5・16軍事クーデターに呼応し金浦で蜂起、海兵隊とともにソウルを目指した。道中、第一漢江橋にて決起軍を鎮圧せんとする憲兵隊の足止めを食らったが、車は自ら率先して橋を強行突破、決起軍のソウルへの進路が開かれた[1]。クーデターの成功後、第一漢江橋での功績により国家再建最高会議で国家再建最高会議議長警護次長。1963年10月の大統領選挙で朴正煕が大統領に当選すると、翌10月の総選挙で民主共和党(共和党)の全国区候補として立候補し初当選、国会議員となった。1965年の日韓基本条約の批准を巡り国会が空転した際、朴正煕の意を酌み実力行使により強行採決し批准させた。以後、第7代、第8代、第9代の国会議員選挙で連続当選し、共和党の中央常任委員や党務委員、国会の内務・外務委員会の委員長などを歴任した。一方では軍事政変後、朴正煕から勉学の勧めを受けて夜間大学に入学を決意し、1964年に国民大学校で政治学修士、1965年には政治学博士の学位を取得したが、権力で買い取ったと言われている[2]。1974年、文世光事件により更迭された前任者・朴鐘圭の代わりとして、第3代大統領警護室長になった。
1979年10月26日、朴正煕暗殺事件で宴席の場で金載圭に射殺された。殺害の理由は明らかになっていないが、従来より車と金は犬猿の仲であり、一説によれば、当時釜山と馬山で起こっていた釜馬民主抗争への対応において、朴正煕が車智澈の強硬策を採用したため、韓国中央情報部の金載圭の立場が脅威に晒されていたためとも言われる。
人物[編集]
警護室の本来の職域を超えて権力を誇示し濫用したため、政敵を多く作り非常に評判が悪かったが、敬虔なキリスト教徒という一面もあり金銭的には清廉だった。車の死後に残された財産は多くなく、彼の年老いた母は養老院で寂しい生活を送った。車の下で警護員を務め後に警護室長となった朴相範は「車室長は生い立ちと陸軍士官学校出身でないことから自己否定感が強く、ために地位を得てから無軌道になったのではないか」と語っている[3]。
脚注・出典[編集]
- ^ a b “「我々は、世界と戦う力も意志もない」全斗煥・李順子育成吐露(““우리는 세상과 싸울 힘도 의지도 없다” 전두환·이순자 육성 토로”)”. 東亜日報. (2013年9月17日) 2016年3月4日閲覧。
- ^ 柴田穂 『射殺—朴大統領の死』 サンケイ出版、1980年。
- ^ 金成東 (2005年6月). “「死線의 불사조」朴相範 前 청와대 경호실장이 지켜본 권력의 그늘”. 月刊朝鮮
外部リンク[編集]
- 10.26朴正煕大統領射殺事件(日本語)
- 車智澈の略歴(朝鮮語)-大韓民国憲政会