軽井沢

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軽井沢(かるいざわ)は、長野県東信地方佐久地域にある地名である。一般的に長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区(ウィキ座標旧軽井沢メインストリートも参照)、あるいは軽井沢町全体を指す。土着の読み方では「かるいさわ」で、アクセントは平板型である。

新・日本街路樹100景』に選出された旧軽井沢のカラマツ並木、三笠通り

語源[編集]

軽井沢という地名は、長野県内においては北佐久郡軽井沢町のほか上田市真田町大字傍陽字入軽井沢、長野市信更町大字田沢字軽井沢の例があり、長野県外では青森県八戸市松館、秋田県大館市、秋田県由利本荘市(旧由利町)、山形県上山市、新潟県長岡市、千葉県鎌ケ谷市、神奈川県横浜市西区北軽井沢南軽井沢)、静岡県田方郡函南町、奈良県生駒市など各地に存在する。語源については諸説あり判然としないが、古語方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」ということから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、枯井沢(水の枯れた沢)という説がある[1]

歴史[編集]

中山道の宿場町[編集]

江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。また、浅間山を望む景勝地としても有名であった。その後軽井沢宿・沓掛宿は洪水や火災に遭った上、大規模開発もあり、宿場町時代の街並みは失われている。史料もほとんど伝わっていない。中山道と北国街道の分岐点であった追分宿は、宿場町の面影のある街並みや史料が残っており、往時の様子を知ることができる。

  • 中山道 江戸… 坂本宿 - (旧)碓氷峠 -(峠町)- 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 …京
  • 北国街道 追分宿(中山道より分岐) - 小諸宿…直江津北陸道に合流)

外国人避暑地と別荘の起源[編集]

江戸幕府が倒れ明治時代に入ると交通事情が変化し、参勤交代もなくなったため、全国の宿場町は没落していった。軽井沢においては雨宮敬次郎が開墾事業を計画するなどしたが、地域は衰退していった。1884年(明治17年)には(新)碓氷峠を越える碓氷新道(現在の国道18号)が開通。軽井沢宿は新道のルートからも外れ、宿場町としての機能を失った。しかしその後、1885年(明治18年)夏にカナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、友人の帝国大学東京帝国大学)英語講師ジェイムズ・メイン・ディクソンと酷暑の東京を逃れ、たまたま軽井沢を訪問。高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在した。ショーは軽井沢の冷涼な気候や風土が故郷のトロントと似ていると感じ、「屋根のない病院」と呼んだ。軽井沢が「保健休養地」を称する所以である。ショーはディクソン夫妻を伴い翌年夏軽井沢を再訪した。

1888年(明治21年)に日本に滞在していたカナダ人の宣教師ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門の斡旋によって旧軽井沢の大塚山に軽井沢初の別荘を建設した。保養地避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものであった。その後この別荘は日本基督教団軽井沢教会の敷地内に移築保存されていたが、1986年(昭和61年)に再び移築復元され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。

旧軽井沢の位置(日本内)
旧軽井沢
旧軽井沢
軽井沢

また1888年(明治21年)9月には碓氷馬車鉄道官設鉄道横川駅から軽井沢駅間に開通。同年12月には官設鉄道信越本線長野方の上田駅から軽井沢駅まで延伸された。軽井沢に鉄道が到達し、碓氷新道(国道18号)近くに軽井沢駅が開業した。更に1893年(明治26年)には馬車鉄道に代わり、アプト式ラックレールを採用して急勾配の碓氷峠を越える官設鉄道碓氷線が開通し、東京方の上野駅と直結した。以後軽井沢駅が地域の玄関口として機能するようになり、駅前に商店が増えた。新道や鉄道が通じている軽井沢駅周辺が地域の新たな交通の中心となり、次第にこれを「新軽井沢」と呼ぶようになった。これに対し軽井沢宿の旧道界隈を「旧軽井沢」と呼ぶようになり、今に至っている。

江戸時代後期に開業するも宿場の衰退により休業していた旧軽井沢の旅籠「亀屋旅館」の主人佐藤万平(初代)は、ディクソン夫妻から洋食や外国人の生活習慣を習得し、1894年(明治27年)、軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)を創業した。その後、1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。1900年代に入ると貸別荘やホテルなども増え始めた。ショーが宣教師であったことから、他の外国人避暑地に比べ宣教師が多く訪れ、キリスト教の色合いが濃い保養地となった。当時設立されたキリスト教会が現在も活動しており、米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した軽井沢ユニオン教会(1918年(大正7年)に建築された教会)、日本基督教団軽井沢教会(1929年(昭和4年)に建築された教会)など外国人ゆかりの教会建築が軽井沢の各地に現存している。ヴォーリズも夫妻でたびたび軽井沢を訪れており、教会以外にも軽井沢会テニスコートクラブハウスや医院など幾多の建物を手掛けた。ヴォーリズの手になる別荘も数棟残っており、現在も使用されている。

日本人の参入[編集]

鉄道が開業する以前の軽井沢には日本人の別荘はなく、碓氷峠を挟んだ東側の霧積温泉が日本人向けの避暑地として開かれていた。霧積温泉に療養に来ていた海軍大佐八田裕二郎(後に衆議院議員)が峠を越えて軽井沢を訪れ、高原の気候や外国人と交流できるこの地を気に入り、土地を購入。その後1893年(明治26年)に旧軽井沢に別荘を建設した。この「八田別荘」が軽井沢初の日本人所有の別荘であった。その後八田は日本人に避暑や転地療養先として軽井沢を紹介し、別荘を建てることを勧めた。1916年(大正5年)のダニエル・ノルマン島田三郎等による「財団法人軽井沢避暑団」の設立(1942年(昭和17年)、「軽井沢避暑団」と「軽井沢集会堂」が合併し「財団法人軽井沢会」となる)に加わり世話役を務めるなど、終生避暑地軽井沢の発展に関わる活動を展開した。軽井沢避暑団はサナトリウム(避暑団診療所。のちマンロー病院)を開設し、結核患者の転地療養を支援した。ヴォーリズが手掛けたサナトリウムの建物は既に残っていないが、「八田別荘」は建築当時の場所に現存している。

こうして軽井沢は箱根大磯に続き新興の別荘地として成立し、その起源から西洋風且つキリスト教の色彩が強い独特の雰囲気を持つ避暑地となっていった。政治家財閥華族等のエスタブリッシュメント学者文化人など西洋文化の洗礼を受けた日本人の間で軽井沢は「日本の中の西洋」と目された。彼らが外国人を真似て西洋風の避暑や別荘レジャーを楽しむ地となり、ショーや他の宣教師達、あるいは八田が建てたような簡素な住宅ではなく、瀟洒な洋館を建てる者も現れた。時代の変遷によりそのような洋館の多くは無くなったが、旧徳川圀順水戸徳川家)軽井沢別荘(後に田中角榮家別荘となる。公益財団法人田中角榮記念館所有。非公開)など数棟が現存している。1923年(大正12年)には室生犀星がまだ学生だった堀辰雄を伴って軽井沢を訪問している。日本三大外国人避暑地のうち他の2地域とは異なり、旧軽井沢は日本人にも開放されていた。旧軽井沢は宿場町であり、日本人の往来は元々あったが、第一次世界大戦による大戦景気以降はついに外国人避暑客より日本人避暑客の方が多くなり[2]、大手資本による周辺地域の大規模開発、一般向けのレジャー用の贅沢品の一種としての別荘販売に結びついていった。

大規模開発の起こり[編集]

野沢源次郎

1909年(明治42年)、草軽電気鉄道の前身となる「草津興業」が発足。同社はスイス登山電車のように高原温泉へ避暑客・湯治客を運ぶとともに、貨物輸送を行って地域の発展を図ろうとする趣旨から創立された。1913年(大正2年)に軽井沢駅に隣接する新軽井沢駅から旧軽井沢駅(開業時は旧道駅)までの区間と北軽井沢駅(開業時は地蔵川駅)を経由して草津温泉駅に至る軽便鉄道の敷設に着手し、1915年(大正4年)には小瀬温泉まで、1918年(大正7年)には北軽井沢まで開業。1926年(大正15年)には草津温泉まで55.5kmに及ぶ高原鉄道が全線開通した。路線の延伸と並行して沿線地域が次々と開拓されていった。1912年(大正元年)に半田善四郎が土地分譲・別荘分譲を開始。1916年(大正5年)には貿易商野澤組の野澤源次郎が軽井沢にて転地療養したことをきっかけに別荘地開発に乗り出し、旧軽井沢の旧中山道沿いに約200万坪の土地を取得。ホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止め人造湖雲場池」を造成、「健康保養地」と称し別荘の分譲を行った。雲場池の周りにホテル・ゴルフ場・市場・遊歩道・並木道等が整備された。この一帯は「野沢原」と呼ばれるようになり現在に至っている。

1918年(大正7年)には、堤康次郎による西武資本1920年(大正9年)、箱根土地株式会社設立)が、大字長倉沓掛区有地坂下ほか公有林・原野60万を3万6千(1坪5)で買収。傘下に株式会社千ヶ滝遊園地を設立し、開発に参入。沓掛宿周辺を「中軽井沢」と称して旧宿場町北側の千ヶ滝を整備、大規模な別荘地の販売や鉱泉の掘削、ホテルの営業を開始した。箱根土地が当初手掛けた物件は山荘というより簡易で手狭な山小屋程度の物であったが、都市部の富裕層を中心に人気を呼び、軽井沢は避暑地として賑わいを見せるようになった。箱根土地は軽井沢町内から嬬恋村への道路整備に着手し、1928年(昭和3年)にバス路線(「高原バス」。1958年(昭和33年)、西武バスに吸収され西武高原バスとなる)を開設、1933年(昭和8年)には有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(後述)。更に信越本線沓掛駅(後に中軽井沢駅と改称)から千ヶ滝を経由し、北軽井沢・鬼押し出し万座温泉草津温泉方面への高原鉄道の敷設や温泉の引湯:なども計画したが、これらは実現に至らず終わっている。

また箱根土地は1921年(大正10年)、大字発地の原野や湿地86万坪を買収、これを「南軽井沢」と称して別荘地・ホテルの他競馬場・飛行場(いずれも後にゴルフ場となる)などを建設し、開発の手を広げていった。南軽井沢は平坦な土地であったが湿地の改良整備が難航し、開発は遅れた。しかし戦後にはゴルフ場の開業に至っている。一方東急資本も戦前から軽井沢の開発に参入し、1945年(昭和20年)には草軽電気鉄道を傘下に収めた。戦後の復興を背景に西武資本と東急資本による軽井沢を舞台としたリゾート開発競争が激化していくことになった。

大正時代には箱根土地や東急・野澤組・三井鹿島建設など、単に別荘を建てて売るのみならず、レジャー施設建設など総合的な大規模開発を手掛け始めたが、こうした業者の手が入って別荘地となった山林や原野の周囲にも、かつては元々の住民がおり、別荘地の中にも不動産登記上は未だに小字が残る通り、農家があり耕作地もあった。しかし元々耕作には適さない不毛の荒地ばかりで、湿気や厳しい寒さなど、農業生業として日々暮らしていくには気象条件も悪かった。宿場町も機能を失って旧来の商業は衰退していたことから、東京の業者が乗り込んできて開発の話が出ると、地元住民は一斉に家や土地を手放し、補償金を手に軽井沢を離れて行った。千ヶ滝は集落全体で箱根土地の買収に同意し、旧住民全員が転出している。

代わって別荘利用者相手に商売をする人々や、別荘地の諸施設・ホテル等に勤務する人々などが転入し、新たな地元住民となった。新住民流入により軽井沢の人口は増加し、1923年(大正12年)8月1日、北佐久郡東長倉村が町に昇格。避暑地軽井沢が広く世に知られるようになったことから、町制施行に際し「東長倉」の呼称を廃し、軽井沢町となった。それまで個人に林間の土地や物件を販売し、買い手が自分で別荘を建て、また管理することが基本であった別荘地分譲においても、大手資本が開発に参入し広大な土地を押さえるようになると、分譲後も管理事務所や管理請負会社を運営して別荘の建物からライフライン道路私道)・別荘分譲地全体の環境などの維持を行い、その他別荘利用者にサービスを提供する「管理別荘地」が増えて行った。また昭和初期には「南原会」など自然を残し商業施設やレジャー施設などを設けない別荘地も生まれ、学者や文化人らが集まり、文化村と呼ばれた。このような別荘地は戦後も独自の取り決めなどを設けて鄙びた雰囲気を維持し、未舗装道路もそのまま残している。

在京資本以外では、中軽井沢で温泉を掘削し1914年(大正3年)に温泉旅館「明星館」(その後、星野温泉ホテルを経て星のや軽井沢となる)を創業し、別荘地開発も手掛けた星野嘉助による星野遊学堂(その後、軽井沢高原教会となる。1921年(大正10年)創立)を中心とした文化活動や、中西悟堂と星野によるエコツーリズム「ピッキオ」の活動も戦後の軽井沢のリゾート地としての発展の基礎を築いた。中西は1934年(昭和9年)、日本野鳥の会を創立し初代会長となった。1951年(昭和26年)には浅間鳥獣保護区が国の指定となり、1974年(昭和49年)には星野温泉に「国設軽井沢野鳥の森」が開かれた。星野温泉は戦後株式会社化され、1995年(平成7年)、エコツーリズムの理念を受け継ぐ[3]リゾート運営会社星野リゾートとなった。国内外に事業を展開し、大手資本の一角を形成するに至っている。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)末以降に本土への空襲が増加した後は、中立国や同盟国の大使館の多くは、軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイスの公使館が置かれる事となった。

戦後の発展と別荘ブーム[編集]

戦後の1951年(昭和26年)、一連の特別都市計画法の一つである「軽井沢国際親善文化観光都市建設法」により軽井沢町は別府・熱海・伊東・奈良・京都・松江・芦屋・松山と共に国際観光文化都市に指定され、国の支援も受け軽井沢のリゾート開発は引き続き進展した。1956年(昭和31年)には西武資本により「軽井沢スケートセンター」(2009年(平成21年)3月31日閉鎖)と「南軽井沢ゴルフ場」(1971年(昭和46年)に軽井沢72ゴルフの一部となる)が開業。1961年(昭和36年)からは国土計画興業株式会社(1944年(昭和19年)、箱根土地が社号変更)が南軽井沢の更に南に広大な土地を取得。高度経済成長期以降の国民の余暇を課題とする国策を背景として、リゾート開発構想を立案した。軽井沢湖(南軽井沢湖)と称する人造湖1963年(昭和38年)造成。1974年(昭和49年)からレマン湖と称する)を中心とした大規模別荘地「レイクニュータウン」の造成を1964年(昭和39年)から開始。レマン湖には島を設け、湖畔にホテルや夏期のみ季節営業を行う商業施設、西洋風庭園を整備するなど大掛かりな工事を行った。国土計画は三越百貨店と提携し、三越店舗でレイクニュータウン別荘地を分譲販売した。旧軽井沢や千ヶ滝に比べ割安(とは言え十分贅沢品の価格)であったこともあり、高度経済成長と相まって、生活に余裕が出たサラリーマンなど中間層を中心に飛ぶように売れ、別荘ブームが起こった。岡田茂が社長に就任した三越は1974年(昭和49年)、レマン湖畔に季節営業の支店「三越ファッション館」を開業し、軽井沢の地に進出するに至った。フランスの古城・シュヴェルニー城を模したという従来の三越店舗には例のない建物で、その豪壮な外観は投資額の大きさを象徴するものであった(建物は店舗撤退後解体され現存せず)。1970年代には夏のレマン湖畔はペンションブームで活況を呈していた旧軽井沢メインストリート(旧軽井沢銀座)と肩を並べるほどに大勢の人出で賑わった。

1972年(昭和47年)2月のあさま山荘事件の舞台となった河合楽器健康保険組合「軽井沢保養所浅間山荘」もレイクニュータウンにあった(事件後建物は大幅に改装され現存。犯人グループ妙義山から佐久市方面に逃亡しようとしていたが、道に迷った挙句、オフシーズンで店舗は営業しておらず客も全くいないレイクニュータウンに偶然出てしまった。当時のレイクニュータウンはちょうど開発されたばかりで、犯人グループが所持していた地図には載っておらず、自分達が今いる場所が軽井沢であるとは当初分からなかったという。事件後の1973年(昭和48年)、レイクニュータウン北側のニュータウン区入口に「浅間山荘事件記念碑(治安の礎)」が建立され、あさま山荘事件十周年記念樹が植えられている)。千ヶ滝では西武百貨店軽井沢店(その後1980年代に撤退。建物は西武商事運営の千ヶ滝ショッピングプラザとなるがこれも1990年代に閉店。建物も解体)が季節営業を始めたほか、1961年(昭和36年)に地元住民の手により造成された人造湖である塩沢湖(アイススケート場)の一帯が整備され、1971年(昭和46年)には「塩沢遊園」が開園(1983年(昭和58年)に「塩沢湖レイクランド」となり、レジャー施設が造られた)、別荘利用者相手の商業施設が増えて行った。他にも大手の三井不動産丸紅野村不動産、新興の紀州鉄道なども別荘地開発を手掛け、軽井沢町内各所に別荘地が林立する状況となった。別荘ブームによる開発の結果、軽井沢町は多額の固定資産税等の収入を安定して得られるようになり、町が日本有数の財政力を有する地方自治体に成長する契機となった。

戦後満州からの引揚者が千ヶ滝の西側、追分の北側の浅間山麓のカラマツの原生林に入植し、荒野を開拓。畑作を行った。入山峠から南軽井沢・発地地区や後に塩沢湖が造成される辺りを通る中山道の脇往還「入山道」沿いなどには古くからの農家が点在しており、稲作が行われ、江戸時代以前に遡るような農地もあるものの(発地地区ももともと荒地や湿地が多かった)、浅間山麓は扇状地で水利が悪く、土地も痩せていたため稲作はおろか農業自体に不向きであった。しかし入植者は土地を開墾し、キャベツレタスなどの高原野菜を生産する農地や牧場を切り開いた。彼らは1937年(昭和12年)、南佐久郡大日向村(後に佐久町大字大日向を経て佐久穂町大字大日向)の分村移民計画により送り出された満蒙開拓移民約690人の内、生きて日本に帰国できた人々とその子孫である。大日向村からの満蒙開拓団は、1938年(昭和13年)に満洲国内に分村を成立させたが、1945年(昭和20年)8月9日のソ連による満蒙侵攻による混乱の中、半数以上が命を落とした。終戦後約310人は日本に生還できたが、満州の分村の家や土地を失った。更に大日向村を離れる際に村の家や土地などを失っていたため村にも帰れず、1947年(昭和22年)、65戸165人が軽井沢に入植するに至ったものである。入植者は開拓地を故郷と同じ「大日向」と命名。大日向神社を祀り、軽井沢町大字長倉の大日向区となった[4][5]米軍演習地化計画もあったが、別荘ブーム以降大日向区にもリゾート開発の波が押し寄せ、土地が高価格で取引されるようになると離農者が増えた。開拓地を開発業者やホテル、商業施設などに売却したり、建設業や商店主、サービス業に転業・兼業する住民が相次いだ。

西武資本による大規模別荘地に取り囲まれつつ開拓農地は存続しているが、既に専業農家はなく、大日向区は別荘・保養所・ペンションテニスコートなどの施設が点在する地域になっている。入植者とは無関係の別荘利用者の定住、他地域からの転入も多くなり、開拓当時の様相は消えつつあるという。入植者世帯の世代交代も進み、満州から帰国した1世から2世は減り、開拓当時には生まれていなかった3世・4世の代になっている。このため入植者世帯の組織「大日向振興会」は入植と開拓の歴史を後世に伝えるため、当時の農機具や生活用品、写真など約160点を持ち寄り、2005年(平成17年)2月11日、大日向公民館内に大日向開拓記念館を開館した。

新たなリゾート地へ[編集]

1980年代には海外旅行ブームが起こり、それまで軽井沢の別荘・ホテルに避暑・レジャーを楽しみに来ていた層は海外に出掛けるようになっていった。軽井沢は客足が伸びなくなり一時的に寂れ、レイクニュータウンの三越やホテルなども次々に撤退(別荘地自体は存続しており、庭園も維持されている)。同時期に若年層を中心にペンションなどが人気となっていた新興別荘地の清里と比較される程度に別荘ブームは沈静化し、活気を失っていった。その後1980年代から1990年代バブル期には単なる別荘地・避暑地から行楽地への脱皮、観光地としての充実が図られた。宿場町当時の遺構がほとんど残っていない軽井沢にとって稀少な歴史的建造物の一つである旧三笠ホテルの一般公開を1983年(昭和58年)より開始。また別荘地としての原点であるショーハウス記念館の一般公開も1986年(昭和61年)から行われている。また軽井沢に点在する美術館文学館記念館の大半はこの時期に開館しており、国内外の著名建築家などが設計・デザインした特徴的な建造物や西洋風庭園が次々に出現した。塩沢湖レイクランドにも1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて園内に美術館・文学館が相次いで開館し、1996年(平成8年)には総合レクリエーション施設「軽井沢タリアセン」となった。

風越公園ムーゼの森など他のレクリエーション施設の整備も進んだほか、結婚式場・会員制リゾートホテルなど様々な業態の事業者が増加。1995年(平成7年)には南軽井沢のゴルフ場に西武資本の大型ショッピングモール軽井沢・プリンスショッピングプラザ」(西武プロパティーズ運営)が開業した。地域の繁栄を維持すべく、一部では商業主義的な新機軸も打ち出され、明治時代以来の西洋風と鄙びた雰囲気を兼ね備えた避暑地の色彩は変容した。国内外からの観光客や買い物客が多くなるにつれ、避暑客や別荘利用者も戻り始め、集客の勢いを取り戻した。別荘の需要も回復し、バブル期には全国的に別荘の価格がつりあがった。大洋村など別荘地ではなかったところにまで開発の手が及び、別荘ブームが再来したが、軽井沢と周辺地域は最も価格が高騰した別荘地であった。また観光客や買い物客が年間を通して訪れるようになったことから、夏期のみの季節営業が多かった商業施設も通年で営業することができるようになり、地域経済の維持・発展に寄与した。軽井沢町は過度な商業化を抑制し、健全な風俗の維持するため条例を制定し、コンビニエンスストアなどあらゆる店舗の深夜営業を規制した。北陸新幹線長野新幹線)や上信越自動車道の開通により首都圏からのアクセスも短時間且つ容易となり、首都圏の後背地として軽井沢町内全域及び周辺自治体に開発が拡大、日本を代表するリゾート地に成長した。

その後のニーズの変化や長期間に及ぶ個人消費の落ち込みなどから、日本国内全体においては旧来型の浮世離れした避暑や別荘レジャーは終息に向かいつつある。バブル期にみだりに開発を行った新興別荘地は廃れた。大方の別荘は値崩れしている上に売れず、衰退する別荘地も増えている。しかし軽井沢においては未だにバブル的な様相を呈したままとなっており、旧軽井沢など人気別荘地を中心に価格も高値で推移しているほか、なおも新規の別荘地開発が行われている。軽井沢町の産業別生産額構成比と産業別付加価値額は不動産業サービス業建設業という別荘・リゾート観光施設に直接関係する3業種のみで8割を越えている状態が長期にわたっており、極めて特徴的な地域経済の様相を見せている。他地域からの転入者や別荘利用者の定住・長期滞在も多くなり、2000年代以降、そうした客を見込んだスーパーマーケット家電量販店ホームセンタードラッグストア衣料品量販店など都市近郊と変わらぬチェーンストア国道18号軽井沢バイパス沿いに相次いで開業したことにより、山間の別荘地ながら日常生活の利便性が向上した。

新たに複数の美術館が開館しているほか、2009年(平成21年)には星野温泉に商業施設「ハルニレテラス」、2016年(平成28年)には軽井沢町農産物等直売施設「軽井沢発地市庭(いちば)」、2018年(平成30年)にはしなの鉄道軽井沢駅に駅ナカ商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」が開業するなど、集客スポットの充実も続いている。日本が人口減少社会に突入した2010年代にあっても軽井沢町・御代田町の人口は増加している。ただ別荘利用者などの定住・長期滞在はリタイア組が多くを占めており、他地域からの転入者によって予測以上の高齢化が進行している。外国人観光客が増え国際化も進んだが、2016年(平成28年)に国が民泊に関連する規制緩和に踏み切ったことに対し、軽井沢町は民泊カプセルホテルは「善良なる風俗の維持と良好な自然環境の保全の障害となり、風紀を乱すおそれがある」との理由から、町内全域においてこれらの設置を一切認めない方針を明示、貸別荘についても営業の条件を厳しくした。軽井沢町は2017年(平成29年)、「長く保たれてきた良好な別荘環境を守るため」との理由から、町内全域での民泊通年規制を含む県条例を2018年(平成30年)6月の住宅宿泊事業法(民泊新法)施行前に制定することを長野県に求めた。条例による民泊通年規制は事実上民泊全面禁止を新たに法的に定めることになり、民泊新法の趣旨や国による規制緩和の方針に逆行するため、長野県は軽井沢町が求めるような内容を含めることについては厳しい見通しを示していたが、別荘地やスキー場などが所在する他の県内自治体からも民泊に一定の規制を設けるべきであるという意見があり、県は同年2月の長野県議会定例会に条例案を提出した。同年3月、「長野県住宅宿泊事業の適正な実施に関する条例[6][7]」が可決・成立。同月22日に公布された[8]。条例は県が別荘地での民泊営業期間を制限することができる内容を含むものとなり、新法施行日と同日の6月15日に施行される。一方2018年(平成30年)1月、星野リゾートが民泊事業参入を表明、軽井沢町内の自社管理別荘の民泊活用を想定していることを明らかにし、町の方針や条例による過度な規制に反対している[9]。この他にも中国系の業者が参入し不分明な別荘地開発が行われるなど、これまでにはなかった新たな課題も生じている。

避暑地・別荘地として[編集]

軽井沢ショー記念礼拝堂』前にて(1920年代)
教会を別角度から

気候と風土[編集]

軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は7.8℃で、札幌の平均気温(8.5℃)よりも低い。そのため避暑地として知られ、『日本三大外国人避暑地』の一つに数えられている。この冷涼な気候は古くから心身の健康に良いとされ、前述のとおりA.C.ショーはこの地を「屋根のない病院」と称した。駐日米国大使エドガー・バンクロフトは、持病を抱えていたため軽井沢にある新渡戸稲造博士の別荘を静養先として利用していた(1925年に別荘で死去)[10]結核の治療法が無かった20世紀初頭には町内にサナトリウムが設置され、初代院長はイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローが務めた[11]。マンローは長らく軽井沢で夏期診療を行なっていたが、関東大震災により軽井沢に本格的に居を移し、通年診療を始める。しかし病院の経営難やマンロー自身の不貞によって、妻のアデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去った[11]

私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。 — 堀辰雄『美しい村』(1933年)[12]

『日本野鳥の会』の創設者である中西悟堂は、軽井沢・星野の地を富士山裏磐梯と共に『日本三大野鳥生息地』と呼んだ[13]。フランス人作曲家、オリヴィエ・メシアン1962年に演奏会への出演のため初来日し、その際フランスの鳥類学者の勧めで『軽井沢野鳥の森』を訪れている[14]。ここで『七つの俳諧』の中の一曲『軽井沢の鳥たち』が誕生している。

霧に包まれる小径

碓氷峠による上昇気流の急激な気圧低下によって、1年のうち約1/3がに包まれる[15](特に、東の碓氷峠に近づくにつれてその影響は大きくなる)。それは程度によっては一寸先も見えないほど深くなり、当時の細川侯爵邸の手伝いをしていた地元の炭焼きの老人は、しょっちゅう道に迷っていたという[16]。この霧の多い気候を活かして栽培した野菜が『霧下野菜』と名付けられ、2010年に商標登録された[17]。軽井沢町の最も東側に位置する旧軽井沢では、霧の影響で湿度が他地域よりも高くなるため地面や日陰の石などにが拡がり、軽井沢の代表的なイメージとなっている。

In addition to the heavier rainfall at Karuizawa there are the morning and evening mists already spoken of. Nevertheless in spite of this appearance of greater wet there is not the least doubt as to the healthiness of the place in summer. (軽井沢では降水量が多いのに加えて、朝と夕方の霧の発生については既に述べてきた。それにもかかわらず、このように湿り気が強いように見えるにもかかわらず、夏の場所としての健全性については疑いの余地はない。) —  カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[18](1891年)
……霧は仏蘭西の幽霊に似ている。 — 芥川龍之介『軽井沢で -「追憶」の代りに-』[19](1927年)
めづらしく霧の深い晩だ。……今夜は集会堂に音楽会があったのでその帰りの人らしいのが霧の中をちらほら歩いている。西洋人が多い。郵便局の角のところにさっきから二人のエトランジェが立っている。その彫像のような女の姿が霧のために私たちからすうっと見えなくなる。すぐ霧の中にすうっと現はれてくる。それがへんに美しい。 — 堀辰雄『エトランジェ』[20](1932年)


西洋との交流[編集]

異国情緒溢れる町[編集]

旧アンドリュース邸の重厚な門構え

前述したような気候と風土によって醸し出される西洋的な雰囲気から、日本を訪れる多くの外国人を魅了した。この地に滞在したフランス人は、故国のボージュ山脈ドイツ人は、シュヴァルツヴァルト(黒い森)、もしくはバイエルン州アメリカ人ミシガン州あたりの風景を連想するという[21]。特にA.C.ショーとその友人J.M.ディクソンは、この地を偶然訪れた際に気候と風景をスコットランド或いはカナダに思わせ、その後ショーはこの地を生涯の避暑地とした。ケッペンの気候区分(トレワーサの気候区分)によれば軽井沢は亜寒帯湿潤気候(湿潤大陸性気候)に属し、科学的にはスウェーデンノルウェーなどの北欧の一部、バルト三国などの東欧などと同じく分類される。町内の景勝地には、かつて西洋人から親しまれた愛称が現在でも呼び名として残っている(離山:Table Mountain、幸福の谷:Happy Valley、雲場池:Swan Lakeなど)。

Karuizawa is a remarkably pretty village, almost hidden in foliage,...… (軽井沢は、ほとんど葉の茂みに隠れた、ことのほか美しい村である。) — アーサー・H・クロウ[注釈 1]『Highways and Byeways in Japan: The Experiences of Two Pedestrian Tourists』[22][23](1883年)
……with its comparatively cool summer weather, its cold refreshing nights, its heavy air-clearing showers, its southern aspect, and its position close to some of the most picturesque mountain scenery of Japan, Karuizawa leaves little to be desired as a summer retreat. (……その比較的涼しい夏の天候、その涼しい爽やかな夜、その空気を綺麗にする激しい雨、その南方の景観、そして日本の最も絵画的に美しい山の風景のいくつかに近い位置にある軽井沢は、夏の隠れ家としてはほぼ完璧である。) —  カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[18](1891年)
And now I am writing in the most lovely study in the world. Over my head the pine branches meet in arches of kindly green……underfoot a lundred layers of pine needles have been weaving a carpet…… (そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。……足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています……) — メアリー・フレイザー『A Diplomatist's Wife in Japan: Letters from Home to Home』[24][25](1905年)
Like all historical places, Karuizawa retains a certain charm, and in summer its ancient groves are the favourite haunt of the nightingale (úguisu), …… (すべての歴史的な土地と同様に、軽井沢は特定の魅力を保有していて、夏にはその古代の森がナイチンゲール(ウグイス)のお気に入りの出没地となっています……) —  Lady Kate Lawson『Highways and homes of Japan』[26](1910年)
ゴルフ場からニューグランドへの、清流に沿うてゆるやかにうねり行く山腹の道路[注釈 2]は、どこか日本ばなれのした景色である。や厚朴(ホオノキ)や板谷(イタヤ)などの健やかな大木のこんもり茂った下道を、歩いている人影も自動車の往来もまれである。 — 寺田寅彦『軽井沢』[27] (1933年)
ともかくもまだ軽井澤には美しい森があるようだ。そんな森の中に、君に小さなヒュッテを建てて貰って、「喬木林[注釈 3]」や「晩夏」の中でボヘミヤ地方の美しい森を隅から隅まで描き尽したアダルベルト・シュティフテルのような物語でも書きながら、静かな晩年を送りたいとそんなことを僕に空想させるような、美しい森が、何といったって、すこし奥深く行きさえすれば、まだまだ軽井澤にはあるようだ。 — 堀辰雄『夏の手紙 〜立原道造に〜』[28](1937年)
……私は、軽井沢の大路小路を、当てもなく、あちらこちらと歩きながら、未知のヒマラヤの高原を空想し、一瞥したことのあるスコットランドの高原や、スイスの山地を追想している。 — 正宗白鳥『軽井沢にて』[29](1942年)

イギリス人語学者音楽家エドワード・ガントレットは、指揮者山田耕作の姉山田恒子1895年夏の軽井沢で出会い、結婚に至る[30]。ここで山田恒子は日本の法的国際結婚による初の英国籍取得者となった[30]

駐日米国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーと妻の松方ハルは、どちらも幼少期からそれぞれ軽井沢に別荘があり[31][32]、またそのどちらも明治期の建物ながら未だに現存しているため軽井沢に縁の深い夫婦となっている。

戦時下の軽井沢[編集]

戦時中には東條内閣下の公安当局によってスイスフランスイタリアドイツフィリピンなどヨーロッパアジア各国の公使館大使館疎開先となった[33]。これは当時の使節団の外交高官のほとんどが休暇用の別荘を軽井沢に所有していたためである(もう一つの疎開先は箱根であった)[34]。しかし現在、その歴史が建造物として残されているのは三笠前田郷内にある『旧スイス公使館』のみである。『旧スイス公使館』については、当時の軽井沢の地元の人たちは戦前から外国人居住者と接することに慣れていたため公使館やスイス人コミュニティとも温かく接していたと伝えられている[34]。この『旧スイス公使館』から1945年8月10日、ポツダム宣言受諾の打電を連合国側に行ったと言われている[35]。当時スイスの外交当局が終戦直前2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)という謎の電報を送っていることがわかっている[36]産経新聞は「国体皇室)をつぶすな」の意で使用していたのではないかとの解釈を示している[36]

戦時下は、多くの外国人が敵性国民の疎開先として軽井沢に移り、事実上の軟禁生活を送った。その中には指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトック、ピアニストのレオニード・クロイツァーレオ・シロタ、野球選手のヴィクトル・スタルヒン、画家のワルワーラ・ブブノワポール・ジャクレー、料理人のサリー・ワイルなども含まれていた[14]。この時期については、軟禁中の厳格な監視下の圧力に加え、戦時中のために食料の供給が十分でなかったことや、軟禁生活の通年拠点が夏仕様の別荘であったことなどから、非常に厳しく過酷な生活であったと伝えられている[37]。この苦々しい出来事が戦後における外国人避暑客減少の理由の一つとも考えられる。 ただし、そのなかでもポール・ジャクレーは戦後もこの地を離れることなく、生涯を終える1960年まで軽井沢に残り絵を描き続けた[38]

流人のように惨めな境遇に落とされたにも拘らず、軽井沢に移った当初わたし達は、まことに快適な愉しい気持になれたのでした。

……折からの新緑に包まれていた風光は中部ロシアの初夏を憶い出させてくれましたし、東京の騒音、空襲警報のサイレン、それに警察や憲兵の圧迫がないことが何よりわたし達に蘇生の思いをさせてくれ、……たのでした。

だが、しかし、まだ喜ぶのはまだ速すぎたのです。それというのはやがて特高憲兵たちもまた大挙して移駐して来たからであります。そして彼らの東京時代に輪をかけたような禁令と監視とが、精神的にも物質的にもわたし達を非常に惨めな生活に陥れて行ったからです。 — ヴェ・ブブノーワ[注釈 4]『戦時下日本での私達 <世界>』[39](1955年8月号)

われわれの士気にもっと悪い影響を及ぼしたものは、われわれ追放者たちが毎日-そして毎夜-感じていた身の不安であった。戦争が刻々日本へ迫って来るにつれ、特高は増々神経を尖がらせ、誰も彼もが皆容疑者になってしまった。

……だが、軽井沢の住人は概していつでも友好的であるか、少なくとも外国人に対しては無関心であったことを強調して置きたい。 — ヨーゼフ・ローゼンシュトック『ローゼンストック回想録――音楽 はわが生命(中村洪介 訳)』[40](1980年)

軽井沢の原風景[編集]

1880~1890年代の軽井沢(現在の『軽井沢プリンスホテルスキー場』付近から撮影)
浅間山を背景に、草原で乗馬をされる明仁親王と御兄弟の正仁親王(1952年8月撮影)

避暑地草創期であった明治時代の軽井沢は、木々が殆どなく一面野原のような場所であったと一般的にいわれている。実際、残されている古写真などを見ると、木々の少なさを確認することができる。1917年大隈重信が野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[41]には、字離山下(泉の里、大隈通り付近)が「原野」と表記されているため、行政文書からも樹木が少なく開けた土地であったことがわかる。この風土は現在でも塩沢や発地など、主に町の南側の地域に残されている。

小説家の徳田秋声は軽井沢を「ぼうばくとした山上の原野であるだけに、伊香保箱根のようなデリケートな自然の味がない。樹木といえば落葉松にと松と決まっているし、土はまばらで溶岩の粉末を見るようだ。総てはぼうぼうたる草原で、雑木林もあり、水もないことはないけれど要するに大陸的だと思われる。ここを外人が避暑地として択んだのは外人に適しているからなのである。」と記した[42]

It was estimated that during the summer of the year 1906 there were over a thousand foreigners sojourning in the place, and the plain is dotted all over with wooden shanties, which give the place somewhat the appearance of a newly-established ranching centre on the foot-hill prairies of Saskatchewan or Alberta. (1906年の夏の間、この場所には1000人以上の外国人が滞在していたと推定されており、平野には、至る所に木製の小屋が点在しており、サスカチュワン州またはアルバータ州丘陵地帯の大草原に新設された牧場のような外観を与えています。) — アーサー・ロイド『Every-day Japan』[43](1909年)

ただし、野澤源次郎や雨宮敬次郎、鹿島岩蔵らの尽力によりカラマツなどの樹木は当時から積極的に植林されており、また外国人避暑客らが自分の庭に環境づくりや生垣としてモミ草花を積極的に植えたことで、今日の多くの道で見られるような並木道が形成されていった[44]

メアリー・クロフォード・フレイザー。彼女は別荘を『Palace of Peace (平和の宮殿)』と名付け、明治期の夏を軽井沢で過ごした

明治期の英国公使夫人メアリー・フレイザーは、かつて旧軽井沢にあった英国公使館別荘の様子を手記[45]に「この家が峠へと続くただ1本の道に近いところにあるとはいえ、緑にすっぽりとつつまれて孤絶している」と記しており、その当時から現在の軽井沢と変わらないような風景が描写されている。

別荘文化[編集]

『軽井沢ブランド』の形成[編集]

軽井沢は、他のリゾート地(熱海伊豆箱根等)と同様に「別荘地」「観光地」「居住地」の3つの性質を持つ地域である。ただし一般的な「居住地」としての用途は低く、「別荘地」と「観光地」が主な面である。他のリゾート地と比べ「別荘地」としての都市イメージが非常に高い地域であり『軽井沢ブランド』とも呼ばれている[46]

また軽井沢は、飲食店が別荘地内に点在していたり、旅行ガイドブックに掲載されている散歩コースやサイクリングコースが別荘地内を通っていたりと、他の別荘地に比べ混在住宅地の様相を見せている。この構造は、観光客というパブリックな視点が生まれることで住民の生活意識向上、地域のブランド力向上に働く。そのほか観光客へのプロモーション意識が景観維持・都市イメージ維持に貢献するなどの利点がある。しかし一方では地域文化と観光資源の境界が曖昧なために治安悪化や観光公害、オーバーツーリズムなどの影響を特に受けやすく、大衆化・俗化が進行する恐れがある[47](実際には、上記の利点が寄与することから作用は拮抗することが多く、軽井沢町も条例を定めるなどの対策を講じ過度な商業化の抑制に努めている)。

軽井沢には、『軽井沢会』をはじめとした別荘団体が複数活動している。これらはかつての「外国人同士の情報交換の場」から「(サロン的な意味合いを持つ)別荘所有者同士の交流の場」へと変容しており、この別荘コミュニティが「軽井沢を特色づける文化」とされている[48][49][50]。ただし実際には、他の地域においても少なからず別荘コミュニティは存在しているため、歴史の長さ・格式の高さとしての特色が強い。

町内には別荘地が数多く存在し、またその多くは明確に区分されているにも関わらず、町全体を一つの別荘地として認識しコミュニティが形成されているのも他方の特色として挙げられる[51]。その多くが任意団体であるが、会員制や紹介制といった排他的な構造を有するために軽井沢のブランド力向上に一定の役割を果たしている。また上記の構造から会員は「軽井沢に別荘を所有する者の代表者」的な意味合いを含み、一般的な住宅地でいう町内会としての役割も担っている。オープン外構(塀を造らないこと)は、別荘コミュニティの形成に重要な働きを持つほか、パブリックな視点が生まれることで混在住宅地と同様の効果をもたらす。ただしいずれも明治期に宣教師から持ち込まれた「プライバシー[52]という認識が存在するが故に成立するものである。

軽井沢の隣人としては私は西洋人の方が好きである。この高原の習ひとしての色彩でもあるし、井戸端会議的に家のなかを覗かれなくて気楽だからでもある…… — 川端康成『高原』[53] (1939年)

現在では高級別荘地として認知されている軽井沢だが、それは大正時代以降に生まれたイメージである。徳田秋声は、大正から昭和初期の「清貧」・「華美」といった2つのイメージに揺れ動く当時の軽井沢の様子を以下のように記した。「家でいうならテント生活より少し進化したくらいの建物があの原野の生活にはもっともふさわしいのだし、服装や何かも屋外生活に適当したものを択ぶのが至当である。……不用以上の土地の買占めはもちろん、建築なども制限を加えて、キャムブ(キャンプ)生活に毛の生えたようなものにしたい。幸いに軽井沢には大して悪いブルヂヨウア気分はまだ入っていないようであるが、……随分大きな土地を占めているぜい沢な別荘もあるようである。風紀は善良だが、ブルヂヨウア気分が入っていないとはいえない。」[54]

徳田は同じく小説家室生犀星宛の手紙にも、「軽井沢はテントの少し発達したようなものがいいのでブルジヨウアの別荘は外人の創見の趣意にも反するとおもいます。」[55]と別荘を建てる際の助言をしている。

また徳田の大正期に執筆された短編小説に登場した、旅先について話す父子の会話には、「同じブルジョアでも軽井沢へ行く人は、ちょっと違うようだな。皆んな変な洋服を着たような奴ばかりで、ぞろり[注釈 5]とした風をしてるものはいないそうで。芸者だとみると、何なに素人風をしていても追払うんだって。だから子供なんかつれて行くにはいいんです。御父さんなんかにや実に詰んないところだそうだ。是非一度来てみろというから…。」[56]と、既に現在と同じく「健全」・「高級」といったイメージの軽井沢が描写されている。

皇室エスタブリッシュメント文化人に愛され、現在でも通りや小径にその場所にゆかりのある人物の名が付けられている。(新渡戸通りや大隈通り、近衛レーンなど)。これら著名人の来訪により、軽井沢はよりブランド力を強めていくことになった。千ヶ滝には朝香宮鳩彦王の別邸があったが(1928年竣工)、1947年に西武へ売却され改装の末『千ヶ滝プリンスホテル』として開業された。この出来事が現在全国展開されている『プリンスホテル』の名前の由来となっている[57]。政治家の尾崎行雄は、イギリス人の母を持つ妻セオドラの勧めにより1890年に軽井沢を訪れ、1914年には別荘を建設、「莫哀山荘」と名付ける。尾崎はショーとも関わりがあり、1936年の『軽井沢避暑地50周年記念式典』の際には名誉総裁を務め、式典会場である『軽井沢ユニオンチャーチ』の広場前でスピーチを行なっている[58]ジョン・レノンビートルズ解散後の1970年代中期から亡くなる1980年まで、オノ・ヨーコの祖父小野英二郎の別荘が軽井沢にあったこともあり、毎年のように夏に家族連れで長期間滞在していた。行きつけのカフェに立ち寄った際には「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」と口にしていたという[59]。2012年頃から「ビル・ゲイツ千ヶ滝地区に別荘を建てることを予定している」と噂されたが、未だにその確証はない[60](個人邸としては破格の規模の工事だったため噂された。当の別荘は2017年頃工事機材が撤去され、一応の工事終了となった)。

西洋的な余暇・文化の定着[編集]

雲場池[注釈 6]で水遊びする外国の少女たち(1920年代)

町内ではレジャー文化が避暑地としてだけでなく観光的な面からも発展した。いずれも歴史的な背景から西洋色が強い。散歩サイクリングは古くから親しまれ、古写真や小説などにもその姿を認めることができる。テニスコートは、『軽井沢会テニスコート』が明仁(当時皇太子)と正田美智子(上皇后美智子)が出会った場として有名[61]であり、歴史も非常に古い(1892年創設)。ゴルフ場は、1919年に『旧軽井沢ゴルフクラブ』が創設されて以降開発が進み、1976年には総数147ホールに達した[62]。『旧軽井沢ゴルフクラブ』と共に名門ゴルフコースの一つである『軽井沢ゴルフ倶楽部』では、白洲次郎が理事、理事長を歴任した。当時首相であった田中角栄が会員ではないために、プレーを断られたというエピソードがある[63](田中は後に会員となり、白洲と共にプレーしている)。1987年からは、女子プロゴルフ選手権『NEC軽井沢72ゴルフトーナメント』が毎夏軽井沢72ゴルフ北コースで行われている。

移動手段が馬であった頃は駅前に貸馬屋が数多くあり、駅から距離のある旧三笠ホテルなどに馬車での送迎が行われていた[64]乗馬としては歴史のあるクラブなどは現存しないが、現在でも町内に数件ほど乗馬施設がある(1964年の東京オリンピックでは、軽井沢で総合馬術競技が行われている)。

道路のインフラが整備されて以降は自動車イベントの開催地としても使われはじめた。なかでも『Giro di Karuizawa(ジーロ・デ・カルイザワ)』、『La Festa Mille Miglia(ラ・フェスタ ミッレミリア)』、『MGDay in Karuizawa』などは著名なクラシックカーイベントである。また毎年浅間山麓の高峰高原で開催されている『浅間ヒルクライム』は、星野温泉の初代経営者星野嘉助(3代目)が尽力した二輪レース『浅間火山レース』に端を発しており、現在でも親族の一人が実行委員長を務めている[65]2019年3月14日にイギリスマイケル・オブ・ケント王子英国王族として初めて軽井沢を訪問した際には「軽井沢は、その立地、美しい風景、そして日本でのクラシックカーへの関心の高まりを考えると、コンクール・オブ・エレガンス[注釈 7]を開催するのに理想的な場所になるだろうと確信しています。」とコメントした[66]。白洲次郎は、晩年においても自ら愛車ポルシェ・911を駆り自宅から軽井沢へやってきたという[67]自動車評論家小林彰太郎、世界的フェラーリコレクターの松田芳穂も軽井沢にガレージを所有した[68][69]

ブランジェ浅野屋(1933年創業)

ブラッスリートラットリアなどの飲食店パンジャムを販売するベーカリーは観光スポットの中でも特に人気である。初期は西洋人からレシピを学び、万平ホテルや旧三笠ホテルで振舞われるなどしていたが、別荘住民や観光客が増加するにつれて需要は高まり、個人的に出店する店が増えた。なかでもドイツ人実業家のヘルマン・ウォルシュケは、軽井沢を故郷ドイツに似ていると感じ1930年代に移住、戦時中の野尻湖畔での疎開を経て、1950年に、軽井沢に自身の精肉店『ヘルマン』をオープンした[70]。現在でもヘルマン直伝の製法を受け継ぐ店が軽井沢で営業しており、この例のように外国人から学んだレシピを今日でも受け継いでいる店は少なくない。飲食店の多くは駅前よりも別荘地近辺に多く、またその大半はフランス料理イタリア料理である。気候が西洋と似ているとして、材料を自家栽培している店もある。また、都市圏の人々が別荘に来るため東京などから出店する形を取っている店も多い。価格設定も都市圏と変わらず、巷では『東京24区』とも言われている[71]。また最近は、都市圏と同様にカフェも店舗数が増加し激戦区となっている[72]

スペイン料理人エネコ・アチャ・アスルメンディは、「軽井沢は自然が美しく、心身がリフレッシュできる場所。食材も豊富でビルバオに似ている部分もあると感じ、チャレンジしてみたいと思った。」とコメント[73]、またフランスの料理人、ミシェル・ブラスと息子セバスチャン・ブラスは、「……そして、ようやく出会えた地、それが軽井沢です。自然の豊かさ、雑木林そして浅間山と広がる景観は、どこかしら本店のあるフランス・ラギオールに似ています。」と話し[74]、それぞれ2019年と2020年に、軽井沢に新店舗を進出させている。

There are two churches, simple, but well appointed, a tennis club, golf links, stables for horses, and two or three large hotels, which give good accommodation. Grocers, butchers, and other trades- men from Tokyo go up for the summer, and, greatest boon of all, there is generally a dressmaker's establishment in the village. (シンプルですが設備の整った2つの教会、テニスクラブ、ゴルフリンク、馬小屋、2軒から3軒の大きなホテルがあり、宿泊施設が充実しています。東京から食料品店、肉屋、その他の商人が夏に向けて出店し、何よりも恩恵として、村には通常洋裁店が設立されます。) — アーサー・ロイド『Every-day Japan』[43](1909年)
『軽井沢ユニオンチャーチ』の前で談笑する避暑客ら(1920年代)

軽井沢の音楽文化は、宣教師らによるキリスト教音楽クラシック音楽の影響がうかがえる。旧軽井沢にある『軽井沢ユニオンチャーチ』は当時から音楽堂として使用されていた。1930年ジャパンタイムズ紙の記録では、この教会で8月に音楽会が3回催されている[75]。演奏者は日本人と外国人が約半々で、中には「朝吹四兄弟」、「堀田伯爵」の名も見られる。別荘所有者の子供たちが演奏する機会も設けられていた。演目にはベートーヴェンラフマニノフチャイコフスキーなどの名も見られる[75]。この建物のある通りは、当時の呼び名から『オーディトリアム通り』と名付けられている。この音楽堂は現在でも夏になると大勢の外国人が集まるといい[76]、定期的にコンサートなども行われている。小説家である堀辰雄は、軽井沢に滞在の際、チェコスロバキア公使館別荘から洩れてくるバッハの『フーガ ト短調 BWV578』(小フーガ)を聞き、小説『美しい村』の形式を思いついたという[77]

戦時中には、前述したようにヨーロッパの高名な音楽家も多く軟禁され、中には日本人に音楽を教授する者もいた。宣教師の両親を持ち軽井沢を愛したアメリカ人音楽教育家のエロイーズ・カニングハムは、1983年、音楽を愛し音楽を学ぶことを目的とした若者たちのために、南ヶ丘に練習場兼音楽ホール『ハーモニーハウス』を建設した[78](設計は吉村順三)。ソニー名誉会長の大賀典雄は、ピアニストである妻、松原緑の「音楽が似合う軽井沢には上質なホールが必要」という言葉をきっかけに[79]、大賀の音に対する理想を実現するため2005年に『軽井沢大賀ホール』を開館した(妻の松原緑は、戦時中に軽井沢軟禁中のレオ・シロタから音楽のレッスンを受けている[14])。大賀は「軽井沢が、音楽面でオーストリアザルツブルクやスイスのルツェルンのような町になってほしい」ともコメントしている[80]

或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。私はその隣りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。バッハのト短調の遁走曲(フウグ)らしかった。 — 堀辰雄『美しい村』[77](1933年)
前年の夏あたりは、しばしばその教会[注釈 8]の中から聖母を讃える甘美な男女の合唱が洩れてきて、それが通行人の足を思わず立ち止らせたりしたものだった…… — 堀辰雄『木の十字架』[81](1940年)

一方で軽井沢の文化についてイギリス人宣教師パゼット・ウィルクスは、「軽井沢はキリスト教が布教されやすい土壌であるにも関わらず住民にはほとんど布教されていないこと」、また「軽井沢の住民が外国人向けの商売に専念し宗教に全く興味を示さないこと」などを、宣教師としての視点から風刺している。ここに神戸横浜などの外国人居留地とは異なる、避暑地特有の文化を見て取ることができる。

KARUIZAWA, June 6, 1912.- Here I am in Karuizawa-a village of about 750 people, dirty, untidy, wicked, and irreligious. The one and only temple has been turned into a school; their god is their belly ; they make all the money they can during the two summer months when nearly 1000 "foreigners" come for their holiday. They spend the remaining ten in gambling their takings. Such a place ought to be an excellent pond for Gospel fishing ; but, alas ! the inconsistencies of us foreign missionaries, many of them real no doubt, but more of them imaginary.….. (1912年 6月6日 軽井沢にて。私はここ軽井沢にいます。約750人の村で、汚く、いい加減で、不道徳で、信心深くありません。唯一の寺院が学校になりました。彼らの神は彼らの食欲です。彼らは、休暇のために1000人近くの「外国人」が来る2つの夏の月の間にできる限りのお金を稼ぎます。彼らは残りの10を賭けに使う。このような場所は、ゴスペル釣りに最適な池になるはずです。しかし悲しいかな ! 私たち外国人宣教師の矛盾...、彼らの多くは間違いなく本物ですが、しかしその多くは虚像になっているのです…...) — パゼット・ウィルクス『Missionary Joys in Japan』[82](1913年)

物語が生まれる町[編集]

旧三笠ホテル(1906年開業)の廻廊。かつてこのホテルでは舞踏会やパーティーが催され、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれた[83]
別荘『浄月庵』。1923年に小説家有島武郎が愛人波多野秋子と心中した舞台として知られている[84]。戦時中には、ベアテ・シロタ・ゴードンの両親であるシロタ夫妻の疎開先となった[85]
旧軽井沢メインストリートに面する『つるや旅館』。大正から昭和にかけて多くの小説家が旅館に滞在した。中でも芥川龍之介は1924年夏、アイルランド文学翻訳者として知られる歌人片山広子とこの旅館で出会い、のちに芥川にとって「最後の恋人」とも語られるような間柄となる[86]

山奥にあるヨーロッパ調の小さな村に夏、秋の短い期間のみ異国人、上流階級が集まってくるという特殊な状況下であったことから、小説、映画など多くの作品の舞台となり、また実際に多くのエピソードが軽井沢で生まれている。特に、リゾート地開発の一方で室生犀星、堀辰雄、立原道造、川端康成、正宗白鳥といった作家たちによる文学の舞台として軽井沢が描かれたことで、いっそう軽井沢が文化の理想郷のイメージとして大衆に普及、固定されていく[87]。小説としては、古くは堀辰雄の『風立ちぬ』(1938年)や三島由紀夫の『仮面の告白』(1949年)、近年では内田康夫の『信濃のコロンボシリーズ』(1987年-)などがある。北原白秋の詩『落葉松』(1929年)は、星野温泉に滞在した際のカラマツ林の光景を描いたものと言われている[88]

スタジオ・ジブリ作品では、『風立ちぬ』(2013年)に軽井沢が登場している。宮崎駿は、堀辰雄と軽井沢について「若いころに読んだが、実はピンとこなかった。古書店で見つけ、たまたま読み直した。繰り返し読むうちに『美しい村』『晩夏』はすばらしいと気づいた。堀辰雄は戦時中、(長野県軽井沢の)追分で過ごしていた。あの寒い追分の冬を過ごすとは、(病を得た)体のためという以上になんらかの覚悟があったのではないか。」と述べている[89]。また『思い出のマーニー』(2014年)に登場する屋敷は、軽井沢タリアセン内にある朝吹常吉の別荘『睡鳩荘』[注釈 9]が初期イメージスケッチの参考になっている[90]

その高原へ夏ごとに集まってくる避暑客の大部分は、外国人か、上流社会の人達ばかりだった。ホテルのテラスにはいつも外国人たちが英字新聞を読んだり、チェスをしていた。落葉松の林の中を歩いていると、突然背後から馬の足音がしたりした。テニスコートの付近は、毎日賑やかで、まるで戸外舞踏会が催されているようだった。そのすぐ裏の教会からはピアノの音が絶えず聞えて。… — 堀辰雄『麦藁帽子』[91](1932年)

まちづくり[編集]

町による『軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例・要綱』や『軽井沢町の自然保護のための土地利用行為の手続等に関する条例及び軽井沢町自然保護対策要綱』、また県による『長野県景観条例』などの各種条例・要綱によって、良好な景観又は風致を維持するためのまちづくりが行われている[92]。そのため建造物の高さや外壁・屋根の色彩、屋外広告物の形状や面積など、あらゆる場面で独自の制限が課せられている。特に『午後11時から午前6時までのコンビニを含む商店の営業又は作業』を条例で原則禁止にしていることは、地域内外問わずよく知られている[要出典]

建築様式[編集]

1895年(明治28年)竣工[注釈 10]『 軽井沢ショー記念礼拝堂』

明治期は、宣教師の清貧で質素な生活様式を反映した建築物が多く造られた。一般に『軽井沢バンガロー』と呼ばれている[93]。これらの建築物において特筆すべき点は、建物の随所に日本的な装飾が施されていることである。同時期に日本人の設計・施工による純西洋建築である旧三笠ホテルが建設されたことなどを考慮すると、ここに文化の調和を目指す双方の意図を感じることができる。

大正から昭和初期は、依然として外国人向けの簡素な建築物がW.M.ヴォーリズA.レーモンドらによって建てられたほか、建設会社あめりか屋などによる豪華絢爛な西洋風建築が散見されるようになる。これらの多くは日本の上流階級の人々によって所有された。また一方では別荘地開発が進み、これまで旧軽井沢に密集していた別荘は、西側、南側へと範囲を拡大していった。

戦後に入ると、避暑に来る外国人は減少し、日本人向けの観光地として隆盛した。高度経済成長や別荘ブームの影響もあり、地元建設業者や大手ハウスメーカーによる中価格・高価格帯の別荘が増加した。また企業や大学の大規模な保養所リゾートマンション、観光客向けのペンションなども建てられるようになった。

ケンドリック・ケロッグ設計のモダニズム建築 『石の教会』(1988年竣工)

近年では「建築の実験場」として機能し、モダニズム建築やデザイナーズハウスの施工がよく見られるようになった。有名な例として、吉村順三設計の別荘群や西沢立衛設計の千住博美術館などがある。2017年には、ニューヨークタイムズに軽井沢のモダニズム建築群が紹介された[94]

別荘地づくり[編集]

典型的な別荘地の風景

別荘地づくりの特徴として、1972年に制定された『軽井沢自然保護対策要綱』に準じた建築とともに

などは、概ねどのエリアの別荘地にも見られる光景である。ただしこれらの特徴は条例などの規定にはなく成立時期も不明なため、軽井沢に伝わる一種の慣習と言える。これらの特徴により町全体に景観の統一感が生まれるため、『軽井沢ブランド』を語る上では欠かせない条件となっている。芥川龍之介の滞在日記[95]には、1925年の時点で既に石垣を積んだ別荘の様子が描写されている。

このページに関する注釈[編集]

各種文献の引用については、著作権切れの作品においては一部旧字体から新字体への改変、ルビの省略など、読みやすいよう適宜修正を施している。なお著作権のある作品については、原文を掲載している。また引用文中の3点リーダーは原文の通り、2倍リーダーは省略記号として用いている。

広い意味での軽井沢[編集]

よく知られた地名であるため、周辺の自治体においても「軽井沢」を名乗る場所や施設名が多数存在する。軽井沢町内の「旧軽井沢」「新軽井沢」の呼称になぞらえた表現である。「旧軽井沢」「新軽井沢」以外は軽井沢町内の「中軽井沢」「南軽井沢」を含めてすべて別荘地開発に由来する地名である。

北軽井沢

群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢及びその周辺から嬬恋村大字鎌原・大字大前方面まで、軽井沢町の北側に接する群馬県吾妻郡内の広い範囲で使用されている。北軽井沢の中心部は元々「地蔵川」という地名であったが、軽井沢の北に位置していることから北軽井沢と称するようになった。旅行ガイドブックや観光案内等では北軽井沢も軽井沢の一部として扱われることが多いが、軽井沢町内とは別の地域として独自の歴史を有している。元は開拓農地であり、現在も牧場が点在しているほか、高原野菜の栽培が盛んな地として知られる。草軽電気鉄道開業後はその沿線の避暑地として軽井沢町内・北軽井沢・草津温泉の三つのエリア分けが行われていた。別荘地としても独自の由来があり、その歴史も旧軽井沢に次いで古い。

軽井沢町内の千ヶ滝(中軽井沢)や南軽井沢同様大正時代には西武資本による開発が進んでいた。このため「中軽井沢」「南軽井沢」同様に大正時代以来地名として使用されており、戦後長野原町の公式の大字名に採用されるに至っている。軽井沢の景勝地として知られる「鬼押出し」はこの地にある。1920年(大正9年)、箱根土地傘下の沓掛遊園地株式会社は、鬼押出し六里ヶ原の国有地80万坪の払下げを受け、観光地として開発に着手した。

翌年の1921年(大正10年)から道路整備を進め、1928年(昭和3年)には将来の高原鉄道敷設(実現せず)を見据えつつバス運行を開始。1933年(昭和8年)8月には軽井沢町内から有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(1973年(昭和48年)12月、同じく西武資本が開発を進めていた万座温泉に至る有料道路万座ハイウェーが開通し、鬼押ハイウェーと併せて「浅間白根火山ルート」となった)。これに対し草軽電気鉄道を傘下に収めた東急グループが嬬恋村内に町有地を持っていた長野原町と提携し、戦後観光開発に参入。嬬恋村を中心に開発を進めていた西武グループと競合している(鬼押出し園鬼押出し・浅間園参照)。戦後のこの地域の大掛かりな別荘地開発は三井不動産によるものである。軽井沢町内に比べ標高が高く、冬は寒さが非常に厳しいが、旧軽井沢周辺にあるような独特の湿気は少ない。嬬恋村は産業別就業者数においてサービス業従事者が最も多くなっている。

西軽井沢

軽井沢町内の大字追分・大字茂沢から西隣の北佐久郡御代田町(旧茂沢村は旧伍賀村を経て1956年(昭和31年)9月30日に御代田町となったが、翌1957年(昭和32年)2月1日、旧茂沢村の一部が御代田町から分離し軽井沢町に編入したため、以後大字茂沢は御代田町と軽井沢町に跨って存在している)方面で使用され、観光施設や事業所などの名称に見られる(西軽井沢ケーブルテレビなど)。大字長倉の借宿・大日向など大字追分に接し比較的後から別荘地開発が始まった地区もこの範囲に含まれる。追分宿は浅間三宿の中では唯一現在まで宿場町の面影を残しており、旧軽井沢・中軽井沢界隈とは異なる雰囲気である。また追分周辺は軽井沢町内の他地域に比べ標高が高く、寒さが厳しい。気象庁の軽井沢特別地域気象観測所(アメダス。旧称・軽井沢測候所)は追分の山の中にあり、天気予報で使用される「軽井沢の天気」「軽井沢の気温」は追分で観測されたデータが基になっている。追分には堀辰雄立原道造室生犀星らゆかりの文化人も多いが、別荘地開発は戦後から行われるようになった。商業施設やレジャー施設が少ないことから、追分文化村など未舗装道路を残し自然や鄙びた雰囲気を維持した別荘地が造られている。「西軽井沢」という呼称は1970年代、別荘地開発が追分から御代田町方面に広がった頃から散見されるようになっている。軽井沢町内を含んでいることもあり観光案内等でも用いられている。

1966年(昭和41年)、総武都市開発は茂沢の森泉山北側の土地390ヘクタールを4億2000万円で地元の財産組合から購入し、一帯の別荘地開発に着手。同社は1億2000万円を投じ湯川の峡谷に軽井沢大橋(所在地は御代田町。1969年(昭和44年)6月竣工)を架橋、延長20キロメートルの舗装道路を整備した。1985年(昭和60年)にはゴルフ場の建設計画を公表、1996年(平成8年)に森泉カントリークラブとして開業した。

2007年(平成19年)、総武都市開発は経営破綻したが、別荘地は別の経営者が入って維持されている。森泉カントリークラブはPGMホールディングス系列の会社の手に渡り、「グランディ軽井沢ゴルフクラブ」として存続している。バブル期にはエクシブや紀州鉄道など後発の企業もこの地域のリゾート開発に参入した。御代田町側にも湯川渓谷・露切峡などの景勝地があり開発が進んだが、軽井沢方面より佐久インターチェンジ佐久平駅のほうが近い別荘地もある。御代田町も軽井沢町に次いで標高が高いが、水利が改善され地味にも恵まれたため軽井沢町に比べ農業に適しており、軽井沢町では行われていないクラインガルテン(「滞在型市民農園」)もある。

東軽井沢

群馬県安中市松井田町方面の別荘地・観光施設等の名称に使用されているが、「碓氷」「妙義」「榛名」など別の呼称も観光用の呼称として併用されている。2001年(平成13年)に開業した碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」では源泉を「東軽井沢温泉ゆたかの湯」と称している。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが用例は必ずしも多くはなく、松井田町和美峠方面では「東軽井沢」ではなく「南軽井沢」と称した別荘地開発も行われている。このエリアにおいては明治時代初期に霧積温泉にて温泉旅館が季節営業を始めている。霧積温泉には軽井沢が別荘地として開かれる以前から別荘が建てられ、避暑地として知られた。伊藤博文勝海舟岡倉天心西條八十与謝野鉄幹与謝野晶子夫妻、幸田露伴ら多くの政治家や文化人らも訪れている。ショーも温泉を訪れ、温泉紹介所を開設した。英文の広告を発行し、外国人に霧積温泉を紹介している。ショーが軽井沢に初めての別荘を設けた1888年(明治21年)より霧積温泉でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えた。しかし1910年(明治43年)に山津波が発生し、42軒あった温泉旅館が流され、温泉街・別荘は壊滅。2軒の温泉旅館が被害を免れ、営業を続けたが、避暑地としては終焉を迎えている。軽井沢町峠町・旧碓氷峠見晴台側から旧中山道(現在は山道のみ)沿いの松井田町峠方面にかけては1970年代に小規模な別荘地開発(見晴台別荘分譲地)が行われ、ペンションなども建てられたが、1990年代には衰退。別荘・ペンションはすべてなくなり、一部は廃墟となって残っている。軽井沢町峠町側には別荘はない。

奥軽井沢

「浅間高原」「嬬恋高原」とも称する。群馬県嬬恋村大字鎌原・大字大前・大字干俣方面の別荘地・観光施設や商品等の名称に見られ、西側は四阿山を挟んで菅平高原に接する。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが、この地域も北軽井沢エリアの一部であるため、用例は必ずしも多くない。「北軽井沢」の呼称が併用されている例もある。「奥軽井沢」の呼称は使用していないものの、嬬恋村では「軽井沢」の地名を用いた別荘地開発や温泉掘削などが1920年(大正9年)から西武資本・箱根土地によって行われており、同社の事業においては浅間山北麓一帯を「軽井沢の高原」等と呼んでいる。その後1970年代から1980年代にかけて安達事業グループが大字大前に軽井沢を称するホテルやレジャー施設を開業し、温泉を掘削。源泉名は「奥軽井沢温泉」となっている。

○○の軽井沢[編集]

避暑地、観光地のキャッチフレーズとして呼ばれることがある。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 生没年不明。英国の商人で、会社を経営していたらしい。1882年英国王立地理学会の特別会員となる。著作は『日本内陸紀行』のみ。1881年6月1日横浜に到着し、9月18日函館を出港するまでの約3か月、日本を旅行して回った。経済的にも恵まれ、教養も深く、当時の日本で活躍していた外国人たちとも交流があった(国立国会図書館 『第112回常設展示 外国人の明治日本紀行』より引用)
  2. ^ 「ニューグランド」とは、かつて雲場池湖畔に存在した、横浜の『ホテルニューグランド』から夏期限定で出店されたホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』のことであり、「山腹の道路」は現在の『御水端通り』である
  3. ^ 「高木林」、「雑木林」と同義
  4. ^ ワルワーラ・ブブノワに同じ
  5. ^ だらしなく着物を着くずしている様子の意
  6. ^ 写真には「七尾池」と記載されているが、奥に見える建物はその外見からかつて雲場池湖畔にあったホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』である。池の形状からしても雲場池である可能性が高いため、「七尾池」は当時の別名と思われる
  7. ^ ロンドンで毎年開催されるクラシックカーの世界的祭典。ケント王子は名誉顧問を務める
  8. ^ 軽井沢聖パウロカトリック教会のこと
  9. ^ 1931年竣工。元々は旧軽井沢の二手橋付近にあったが、朝吹登水子の意思により2008年に移築された
  10. ^ 現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28年)で、1922年(大正11年)までにほぼ現在の形に増改築された。

出典[編集]

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関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『軽井沢町誌 自然編』1987年 軽井沢町誌刊行委員会
  • 『軽井沢町誌 歴史編 近・現代編』1988年 軽井沢町誌刊行委員会
  • 『軽井沢町誌 民俗編』1989年 軽井沢町誌刊行委員会
  • 『御代田町誌 地誌編』2000年 御代田町誌刊行会