輔弼

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輔弼(ほひつ)は、天皇の行為としてなされるべき、あるいは、なされざるべきことについて進言すること。特に大日本帝国憲法下において天皇に大権(天皇大権)の施行に過誤がないよう意見を進言することを意味した概念[1]

前史[編集]

大日本帝国憲法以前にも「輔弼」という概念は存在した。1871年太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできないとされ、天皇との距離が明確に区別されていた。

正院制度にはさまざまな矛盾点が存在したため、1873年には再び改革がなされたものの(このときに「内閣」という用語が登場)、太政大臣右大臣のみが天皇の「輔弼」を担う、という枠組みに変更はなかった。征韓論の問題において、正院の決定が明治天皇聖断により覆されたのも、右大臣太政大臣代理)岩倉具視西郷隆盛参議達にはない天皇の「輔弼」権限を保有していたからである。岩倉は自身が持つ「輔弼」権限を利用し、その政治的影響力を長く行使し続けた。また、元田永孚佐々木高行宮中グループの台頭も大臣の「輔弼」権限を背景にしたものであった。

一方、伊藤博文は岩倉達に対抗するため、参議と内閣の地位向上に腐心することになる。参議省卿分離論と呼ばれる構想がそれであり、1880年の太政官中六部分掌事務においては内閣の地位向上を意識した規定を盛り込むことに成功するが、その直後におきた外債問題においては、外債募集に反対である岩倉と宮中グループは「輔弼」権限を最大に利用することにより明治天皇を操り、参議と省卿を分裂させ政争に勝利した。つづく財政再建問題において、岩倉は米納論を主張するも、これは参議のみならず宮中グループにも不評であり、伊藤達は岩倉に政治的に一矢報いることに成功するが、そのためには「輔弼」権限をもつ三条実美の力を借りることが必要であった。

明治十四年の政変による混乱を収拾するのに主導的な役割を果たした伊藤は、天皇親政指向の井上毅らと協調し、「輔弼」をめぐる参議と大臣の格差を埋める改革に着手するものの、その実行のためには岩倉の死を待たねばならなかった。岩倉の死後、1885年、空位となった右大臣の後任に伊藤を当てようと明治天皇と三条実美は動くが、制度の抜本的な改革を志向する伊藤に拒絶され、伊藤が導入を主張する内閣制度を取り入れざるをえなくなる。1885年12月には内閣職権が導入され、一般国務においての「輔弼」権限の内閣の独占がうたわれた。ただし、軍機事項においては、軍部の「輔弼」を認めている。また、宮中における「輔弼」については、太政官達68号において「常侍輔弼」の制を明記し、内大臣(初代:三条実美)と宮中顧問官[2]をそれに当たらせることにより、三条や宮中グループに一定の配慮を示した。ただし宮中の事務につき輔弼する宮内大臣には、それまで宮内卿であった伊藤が引き続く形で就任した。

伊藤と井上は大日本帝国憲法の起草に大きな役割を果たしたが、内閣と天皇をめぐる両者の思想は全く異なるものであり、帝国憲法には両者の妥協ともいえる規定の欠如が存在しており、大日本帝国憲法における内閣規定の欠如もその一つである。内閣の独自性を肯定する伊藤と天皇権力の内閣による制約を危惧する井上との妥協が図られたため、後の日本国憲法にみられるような内閣総理大臣の首長性と主権者に対する内閣の連帯責任規定のようなものは設けられず、上記のような各国務大臣の単独輔弼規定が設けられるに留まった。1889年には内閣官制が設けられているが、内閣総理大臣の地位の低下がみられる一方で、内閣の一体性を保つ配慮が図られた。一方で軍の帷幄上奏権は引き続き維持された。

伊藤と井上の妥協の産物としては枢密院の設置もあげられている。1888年枢密院官制が成立し、枢密院は内閣と共に天皇の輔弼機関であると定められ、ここでも内閣の地位の後退がみられる。なお、初代の枢密院の議長は伊藤である。後に伊藤が枢密院議長を辞職すると、明治天皇の要請により元老制度が導入され、伊藤は黒田清隆と共に最初の元老となった。後にこの元老も輔弼の一端を担うようになり、輔弼権限の分散化は伊藤の政治的足跡と軌を一にするといえる。

大日本帝国憲法下の輔弼制度[編集]

天皇大権とは大日本帝国憲法下において国法上天皇に属するとされた権能を指す[3]。この各大権の性質に応じて異なる機関が輔弼を担った。

天皇大権のうち憲法に定められた議会の議決や他の機関への委任をすることなく行使することができる国務に関する権能(憲法第6条から第16条までに定められた権能)を国務上の大権といった[4]。大日本帝国憲法では一般国務について「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)と定められていたが、大日本帝国憲法下の輔弼責任に関しては憲法学上の対立がみられ、天皇機関説(美濃部達吉)によれば天皇の統治権は国務大臣の輔弼を俟って行使されることが憲法上の要件とされるとしていたのに対し(美濃部達吉『憲法撮要』)、天皇主権説(穂積八束上杉慎吉)によれば国務大臣の輔弼は天皇の統治権行使には不可欠なものではないとしていた(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。

憲法上の国務上の大権に対し、天皇の皇室の家長としての地位に基づく皇室法上の大権(皇室大権)に関しては憲法ではなく皇室典範及び皇室令で規定され、宮内大臣の輔弼に属するものとされた[5]。また、従来の制として内大臣が常侍輔弼の任に当たることとされた[6]

また、憲法上の大権事項のうち統帥権(第11条)の輔弼は国務大臣の輔弼の管轄外とされ、陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長の輔弼を受けることとされた[7]内閣官制第7条により統帥に関する事項は内閣総理大臣を経ずにこれらの軍令機関が直接上奏し、国務に関連するものについては内閣に下付されるものを除いて陸海軍大臣が内閣総理大臣に報告することとされた(帷幄上奏[8]。後に、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いたという指摘がある。

なお、日本国憲法下においては、天皇の国事行為は全て合議体である内閣の「助言と承認」の下に行われるとされているが、旧憲法下の国務大臣の「輔弼」の性格との関連性については憲法学者の間でも様々な見解がある。

脚注[編集]

  1. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、247頁
  2. ^ 宮中顧問官の任務は諮詢への応答であり、直接「常侍輔弼」の任にあるのは内大臣のみ。
  3. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、187頁
  4. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、190頁
  5. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、187-188頁
  6. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、273頁
  7. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、198頁
  8. ^ 美濃部達吉著 『憲法提要 改訂版』 有斐閣、1946年、259頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]