近藤孝太郎

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こんどう こうたろう
近藤 孝太郎
生誕 1897年3月20日
愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町
死没 (1949-11-06) 1949年11月6日(52歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京高等商業学校(現・一橋大学
職業 思想家社会運動家、著述家

近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月20日 - 1949年11月6日)は、日本思想家社会運動家、著述家。出版物には翻訳書も含まれている。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の様々な文化活動を牽引した。

経歴[編集]

東公園内世尊寺にある近藤孝太郎の歌碑

愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)に近藤伍三郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業[1]。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1919年(大正8年)、同校卒業。若山牧水に師事し「創作社」同人となった。同年、日本郵船会社に入社。翌1920年(大正9年)にニューヨーク支店勤務となるが、1921年(大正10年)に退社し、同年末にフランスへ渡る。パリで絵画、演劇を研究し、木下杢太郎らと交わった。とりわけセザンヌに傾倒し、ついに芸術家への道を歩み始める[2]

帰国後、たまたま知遇を得た岡田撫琴に岡崎で美術展を開くことを主張。岡田はそれを本多敏樹市長に進言し、その結果1922年(大正11年)11月18日から28日までの期間、第1回「岡崎美術展」が開催された[3]

1923年(大正12年)、『グレゴリイ夫人戯曲集』の翻訳(翌年出版)その他の著述を行ううちに関東大震災に遭う。岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)絵画科嘱託教員となる傍ら、六供町の自宅からほど近い籠田町にアトリエを開く[4]

我々の会、新光会を設立[編集]

1925年(大正14年)、杉山新樹、山本鍬太郎[注 1]らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める[8]。同年6月25日、版画・詩・短歌の雑誌『試作』を創刊し[9]、版画運動に先駆的役割を果たした。このころ石彫刻を自ら試みるなど実作も行い始めた。

1927年(昭和2年)4月、愛知県岡崎師範学校の学生と洋画研究の会「新光会」を設立し、その指導に当たった。県立第二中学校の後輩で、『三河日報』の記者をしていた和田英一の影響もあり、この頃より社会主義思想への傾斜を深めて行く[10]

1928年(昭和3年)9月から、岡崎市立図書館長で恩師の柴田顕正を助けて『岡崎市史』編集に携わり、主に「維新史」を担当した[2]。活動は芸術研究にとどまらず、同年秋には「マルクス主義研究会」を結成した。

1929年(昭和4年)7月19日、「新光会」のメンバーで岡崎師範学校生徒の畔柳治三雄らは防空演習の折、市内の電柱や板壁に帝国主義戦争に反対するビラを貼付[注 2]。多数の生徒が退学処分となったこの事件において近藤も取り調べを受けたが、警察は近藤の直接関与はないと判断した[11]

同年7月、プロレタリア科学夏期大会に参加。受講後参加者により「プロレタリア科学友の会」が結成され、近藤は推されて会長に就任。プロレタリア科学友の会にもやがて当局の手が入り、1931年(昭和6年)、近藤は本富士警察署に検挙される。言語に絶する拷問が行われ「転向」を条件に釈放されたことを近藤は生前、盟友の山本鍬太郎に語っている。衰弱した体で米河内の実家に辿り着き、回復するまで岡崎にいた[12][13]

1934年(昭和9年)11月、上京。音楽新聞社に入り『音楽新聞』編集長となった。舞踏批評家として活躍、日本舞踊家の花柳徳兵衛らと交わる。舞踏劇『炎の御子』を執筆。同作品は青山圭男の演出、福田蘭堂の作曲、水の江瀧子の主演で1940年(昭和15年)に新橋演舞場で上演された[14]

1937年(昭和12年)10月、東京石川島造船所に入社。産業報告文化部長となり青年労働者に絵を教え、文学を講じ、彼らの文化的向上に情熱を傾ける。しかし結果としてその赴くところ、熾烈な反戦思想の鼓吹となり、1945年(昭和20年)4月に再び検挙され、豊多摩刑務所に留置された。

戦後の活動[編集]

敗戦の日8月15日に釈放。思想関係の投獄者たちは食事を減らされたため餓死寸前だったという[15]。再び石川島の労働者のもとへ帰り、職場美術、自立演劇の運動を指導し、日本美術会全日本職場美術協議会、東京都自立演劇協議会などの結成に重要な役割を果たした。傍ら、月島の自宅に労働者を集めて、絵画・文学研究とマルクス主義の講義を続けた。

同年暮れ、岡崎では文化協会設立の世話人会がもたれ、竹内京治杉山新樹榊原金之助天野末治足立一平らが参集して案を練った[16]1946年(昭和21年)2月3日、岡崎文化協会が創立される[17]。しかし活動が専門的、高踏的と批判されたことと急激な物価の値上がりで経済的に行き詰まったことで、協会の建て直し問題がおこる。そこへ近藤は自らペンをとって38ヶ条の会則を提示するなど援助の手をさしのべた[16]。近藤と前述の山本鍬太郎は文化協会演劇部の中に「葡萄座」を組織し[18]、岡崎地方における新劇活動の足場を作った。創刊間もない『東海新聞』1946年1月1日号に「戦争を後悔せよ」と題する評論の第1回分を寄稿[19]

1948年(昭和23年)9月、全日本産業別労働組合会議文化部に入り指導に当たる。機関誌『労働戦線』に幾多の述作を寄稿する。

1949年(昭和24年)11月6日心臓麻痺により死去[14]。52歳没。近藤の墓は故郷の岡崎市米河内町字登りにある。墓碑銘は「白雲深處」[20]

著書・訳書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 山本鍬太郎(1899 - 1964)は、愛知県坂崎村久保田(現・幸田町)出身の画家。東京美術学校卒業。1939年5月から1949年3月まで愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)で教鞭をとった。1946年春に学校に演劇部を創設すると、のちに俳優になる杉浦直樹が入部した[5]。戦後は学生演劇、映画教育の発展に努めた。原水爆禁止日本協議会支部の会長、太田一夫衆議院議員の後援団体・中部一夫会の会長などを歴任した[6][7]
  2. ^ 畔柳治三雄らが貼った反戦ビラの文言の一部を以下に紹介する。「国家総動員反対/諸君ハ労働者ダ/資本家共ノ犬ニナツテ/諸君ヲ戦争ニ引ツパリ出ス/奴等ヲケツトバセ」「金持ダケガシコタマ儲ケルタメニタクラム戦争ニハ反対ダ/国家総動員ヲハネ飛バセ」[10]

出典[編集]

  1. ^ 『岡高同窓会名簿 1986』 愛知県立岡崎高等学校同窓会長、1986年10月1日、15頁。
  2. ^ a b 近藤孝太郎』 111頁。
  3. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 98頁、488頁。
  4. ^ 岡崎の人物史』 234頁。
  5. ^ 小島哲男「未来の主役へ 俳優 杉浦直樹さん(72) 『ばか』になる熱さ欲しい」 『中日新聞』2003年12月7日付朝刊、県内総合、25面。
  6. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 406頁。
  7. ^ 『東海新聞』1958年8月26日、1面、「地方選をめざす人々 山本鍬太郎さん」。
  8. ^ 新編 岡崎市史 近代 4』 951-953頁。
  9. ^ 東海愛知新聞』2000年5月13日。
  10. ^ a b 新編 岡崎市史 近代 4』 1063-1068頁。
  11. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 307-308頁。
  12. ^ 近藤孝太郎』 59頁。
  13. ^ 岡崎の人物史』 235頁。
  14. ^ a b 近藤孝太郎』 112頁。
  15. ^ 近藤孝太郎』 60頁。
  16. ^ a b 近藤孝太郎』 61頁。
  17. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 99頁。
  18. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 406頁。
  19. ^ 『東海新聞』1971年5月19日。
  20. ^ 『東海愛知新聞』2000年5月12日。

参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 近代 4』 新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日
  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』 新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日
  • 『岡崎の人物史』 岡崎の人物史編集委員会、1979年1月5日
  • 福岡寿一編 『近藤孝太郎』 東海タイムズ社1973年11月1日
  • 久米康裕編 『新編 三河知名人士録』 尾三郷土史料調査會、1939年10月21日
  • 宮川倫山編 『全岡崎知名人士録』 東海新聞社1962年6月1日

関連項目[編集]