遠山一行 (与助)

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遠山一行
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正16年(1588年
改名 義昌(法名)
主君 織田信長徳川家康
氏族 明知遠山氏
父母 父:遠山景玄

遠山 一行(とおやま かずゆき)は、戦国時代武将明知遠山氏の当主、遠山景玄の子。明知城主。

略歴[編集]

美濃国恵那郡明知に生まれる。元亀元年(1570年)の12月28日の上村合戦に参戦したが祖父景行は自刃し、父の景玄も、秋山虎繁が率いる武田軍に敗れ戦死した[1]。その後、明知城に入った叔父の遠山友治(勘右衛門)も天正3年(1575年)に武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻で明知城が落城した際にも討死した[2]。累代が絶えたことから、家臣一同が相談して、妙法山萬勝寺の僧となっていた遠山利景(一行の叔父)が還俗して明知遠山氏の跡を継ぎ、一行は猶子となった。

同年の長篠の戦いの後、織田信忠岩村城を攻囲したが、その戦いにおいて一行と利景は小里城を落とし、明知城を奪還した[1]

天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、徳川家康の麾下に属して参加、そのまま河尻秀隆らと甲府の守りついていた所に、本能寺の変を知って帰還した[1]

この時、駿河国に赴き、江尻城にいた本多重次を訪ねて、今後は一族は徳川方に従うことを誓ったが、直後に羽柴秀吉より美濃金山城森長可に従い人質を出すように命ずる書状があり、一行の娘を金山城に人質として送った。しかし天正11年(1583年)、利景は密かに明知城を出て、三河足助城に移ると家康の麾下に入った。これを知った長可は激怒して質子の一行の娘を殺して屍を野原村の河原に晒した[1]。明知城は長可の手に落ちた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、明知城は長可の家臣石黒藤蔵・関左門の2人が守っていたが、4月17日、利景は策を講じてこれを襲い、城を奪還すると共に首級15を挙げた。そのうち3つを小牧の家康本陣に送り、西尾吉次本多正信首実検をし、論功行賞で明知の所領安堵が認められた[1]。さらに加勢を受けて手薄な長可領を攻撃したが、長可の家臣各務元正の守る岩村城への攻撃は失敗し、逆に遠山半左衛門などが討ち取られたため、それ以上の侵攻は頓挫した。なお、遠山一行は真田昌幸を押し込めるための小諸城の守りに派遣された大久保忠世に後見された依田康国に従った[1]

秀吉と織田信雄との和睦を機に終戦すると、秀吉の命令で明知城は戦死した長可の弟忠政の所領に加えられることになり、利景は再び追われて足助城の鈴木氏を頼った。天正16年(1588年)の冬、家康の使いとして信濃甲斐駿河を行き来していた一行は、信濃と甲斐の国境にある平沢峠で大雪に遭って凍死。そのため明知遠山氏の嫡流である景玄系は断絶した。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f 『寛政重脩諸家譜』
  2. ^ 『美濃国諸旧記』

参考文献[編集]