郁久閭吐賀真

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郁久閭 吐賀真漢音:いくきゅうりょ とかしん、拼音:Yùjiŭlǘ Tŭhèzhēn、? - 450年[1]または464年[1])は、柔然可汗呉提の子。可汗号は処可汗[2](しょかがん)といい、“唯可汗”という意味である。『資治通鑑』では処羅可汗、『宋書』では菟害真と表記。

生涯[編集]

太平真君5年(444年)、呉提が死去すると、子の吐賀真が即位して、処可汗と号した。

太平真君10年(449年)1月、太武帝の車駕は北伐を開始した。高涼王の拓跋那は東道に、略陽王の拓跋羯児は西道に、太武帝の車駕は拓跋晃とともに中道から涿邪山に出た。柔然別部帥の爾綿他抜らは千家余りを率いて北魏に投降した。この時、北魏軍が行軍すること数千里。吐賀真は即位したばかりだったので、懼れて遠方に逃れた。9月、太武帝の車駕は再び北伐を行った。高涼王の拓跋那は東道に、略陽王の拓跋羯児は中道に出でて、諸軍とともに地弗池で合流することを約束した。吐賀真は柔然の精鋭全軍を率いており、軍需物資は非常に豊富であった。吐賀真は拓跋那を包囲し、包囲網は数十重に及んだ。拓跋那は周囲に長い塹壕を掘って防備を固め、数日間、対峙した。吐賀真は何度も戦闘を仕掛けたが勝利できなかった。拓跋那が少ない兵力で防備を固めているので、大軍が到来しようとしていると疑い、夜に包囲を解いて逃走した。拓跋那が軍を率いて吐賀真を追撃すること、九日九夜。ますます吐賀真は懼れて、輜重を放棄し、穹窿嶺を越えて遠方に逃れた。拓跋那は非常に多くの輜重を手に入れ、軍を率いて帰還し、太武帝の車駕と広沢で合流した。略陽王の拓跋羯児は柔然の民衆や家畜百万頭余りを全て収容した。これより吐賀真は孤立・弱体化して、遠方に逃れてしまったので、北魏は辺境の警戒を緩められるようになった。

太安4年(458年)、文成帝の車駕は北方を征討した。騎兵10万、車両15万。旌旗は千里に続き、大漠(ゴビ砂漠)を渡った。吐賀真は遠方に逃れ、柔然莫弗の烏朱駕頽は民衆数千落を率いて北魏に降伏した。文成帝は石碑に刻んで功績を記すと帰還した。

和平5年(464年)、吐賀真が死去し、子の予成が即位して、受羅部真可汗と号した。

脚註[編集]

  1. ^ a b 魏書』蠕蠕伝には「和平五年(464年)吐賀真死」とあるが、『宋書』索虜伝の太武帝に送った書に「芮芮呉提以死、其子菟害真(吐賀真)襲其凶迹、以今年(宋元嘉二十七年)二月復死」とあり、北魏太平真君11年(450年)2月に吐賀真が死んだことになっている。
  2. ^ 白鳥庫吉藤田豊八は“処”を蒙古語のdje(然り)の音訳とした。

参考資料[編集]


先代:
呉提
柔然可汗
444年 - 450年/464年
次代:
予成