郤正

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郤 正(げき せい、? - 278年)は、中国三国時代蜀漢の官僚。令先(れいせん)。元の名を纂。司隸河南尹偃師県の人。祖父は後漢益州刺史で、馬相の乱によって落命した郤倹。父は郤揖。

生涯[編集]

父は祖父が殺害された後も益州に留まり、後に孟達に従って営都督となった。父がに降伏した孟達に同伴して中書令史となったが、郤正が幼い頃に亡くなり、母も再婚したため家庭的には余り恵まれなかった。そのためか、幼い頃の郤正は貧しさをに負けずに学問にひたすら打ち込み、若くして名文章家となった。

秘書監により徴用されて秘書令史となった、後に秘書郎に遷り、最終的に秘書令に至った。その性質は営利には淡白で文章の美を追求し司馬相如楊雄班固張衛らの遺した文、篇、賦や同時代の優れた文章や論文、益州の優れた文人を求めて皆の目に当たるようにした。

秘書郎であったころ郤正はたびたび先人の文士である大臣孟光の下をたずね、学問上の疑問について教えを乞うた。このとき孟光は郤正に皇太子劉璿の性格や能力を訊ねたが、郤正は慎重な受け答えに終始した。孟光はこれを評価したものの、皇太子のあるべき姿を論じて、郤正を感心させた。

また釈譏という対話形式の論文を残し、当時の混乱した蜀漢の官吏としてのあるべき振る舞いを論じており、蜀書郤正伝に引用されている。

郤正は宦官黄皓と長きに亘って屋敷を並べる仲にあったが、黄皓に嫌われる事も無く、彼自身も出世に興味を示さなかったため、黄皓から貶められる事は無かった。ただし、30年もの間、昇進する事も無く秩は六百石を超えることはなかったという。

劉禅が魏に降伏する際には降伏文書を書き、また洛陽に移送された時は、妻子を捨てて劉禅に付き従った。劉禅は郤正の補導宜しきを得て、魏において落ち度なく振舞う事ができたので、「郤正を評価する事が遅かった」と後悔したという。

なお、蜀書後主伝が引く『漢晋春秋』には次のような逸話がある。劉禅に対して「蜀が恋しいため、蜀に戻りたいと述べられなさい」と進言すると、劉禅は司馬昭に対してそう言ったが、司馬昭に「これは、まるで郤正殿が教えた言葉にそっくりですね」と見抜かれ、逆に大笑いになった。

後に、関内侯に封じられ西晋泰始年間に安陽県令となり詔を受けて劉禅への忠節と治理の功績を賞されて巴西太守に昇進し、278年に死去した。

100篇にも及ぶ多くの著述、詩、賦、論文も残しており、姜維を高く評価した論文などがあり裴松之によって引用されている。