都野元勝

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都野元勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 慶長3年(1598年
死没 延宝4年(1676年
改名 都野役熊(えぐま、幼名)→都野元勝
別名 通称:吉蔵→三之助→八郎兵衛尉→三左衛門尉
主君 毛利輝元秀就綱広
長州藩
氏族 藤原北家宇都宮氏庶流都野氏
父母 父:都野家頼、母:あちゃこ(吉川経家息女)
就政、親政

都野 元勝(つの もとかつ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将毛利氏の家臣。都野氏石見国那賀郡都野郷(現在の島根県江津市)を本拠とした国人

生涯[編集]

慶長3年(1598年)、毛利氏家臣である都野家頼の子として生まれるが、元勝がまだ生まれる前の蔚山城の戦いにおいて父・家頼は戦死している。そのため毛利輝元は、生まれてくる子が男子なら家頼の後を継がせるとして、同年2月2日付で宛先に「都野」とのみ記した判物を児玉元兼を使者として先に与え、同年5月27日に改めて「都野役熊(元勝)」に家頼の後を継がせる旨の判物を与えた。

慶長9年(1604年1月5日、輝元の加冠により元服し、輝元の偏諱から元勝と名乗った。また、元和3年(1617年9月21日に「八郎兵衛尉」、寛永4年(1627年2月1日には「三左衛門尉」の官途名毛利秀就に与えられた。

元勝は毛利輝元秀就綱広の三代に仕え、延宝4年(1676年)に死去。子の就政が後を継いだ。

参考文献[編集]