酒井勉

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酒井 勉
オリックス・バファローズ コーチ #80
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楽天コーチ時代(2014年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県船橋市
生年月日 (1963-06-27) 1963年6月27日(55歳)
身長
体重
181 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月13日
最終出場 1993年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • アスピア学園
  • オリックス・ブルーウェーブ
    オリックス・バファローズ (2001 - 2003, 2008 - 2010)
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2012 - 2015)
  • オリックス・バファローズ (2016 - )

酒井 勉(さかい つとむ、1963年6月27日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

東海大浦安高校では、1981年夏の千葉大会準々決勝に進むが、銚子商に完封負け。東海大学へ進学。同期に関根勝美(朝日生命)、2年下に荻原満など好投手がおり、あまり出番はなかった。首都大学リーグでは在学中6回の優勝を経験。リーグ通算11試合登板し1勝1敗。他の大学同期に渡辺伸治がいる。

大学からの卒業後に日立製作所へ入社すると、1988年都市対抗野球に出場した[1]。同年のNPBドラフト会議で、阪急ブレーブスの買収によって創設されたばかりのオリックス・ブレーブスから1位で指名。結局、オリックス球団の1期生として入団するとともに、阪急時代から在籍している渡辺と再びチームメイトになった。

プロ入り後[編集]

1989年サイドスローから繰り出す、スピードはないが重い球質の直球と打者の裏をかいて打ち取る頭脳的な投球術でシーズン前半は先発、後半は抑えで9勝9セーブ(7敗)を挙げ、渡辺智男西武)との激しいマッチレースを制して新人王に選ばれる。

1992年には一軍公式戦で10勝を挙げたが、翌1993年のシーズン中盤に、厚生省(当時)指定の特定疾患(難病)黄色靭帯骨化症を患っていることが判明。背骨の一部を摘出する大手術を受けたため、1993年のシーズン終了後には、日本プロ野球史上初の複数年契約(3年契約)を結んだ。契約期間中は、チームの世代交代の時期と重なったことなどを背景に、一軍への復帰を果たせなかった。3年契約の最終年に当たる1996年に現役を引退。

現役引退後[編集]

オリックスの二軍マネージャー、アスピア学園関西野球専門学校(廃校)の監督、野球解説者を歴任。2001年から2003年までは、オリックスの二軍・サーパス神戸投手コーチを務めた。

2004年からオリックスのスカウトに転身すると、平野佳寿などの獲得に尽力[2]2008年テリー・コリンズ監督辞任を機に、同年5月22日から2010年まで再び二軍投手コーチを務めた。この時期に西勇輝を主力投手へ育て上げた[3]が、2011年に再びスカウトへ転じた[4]

2012年に、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍投手コーチへ就任[5]2013年から二軍チーフ投手コーチへ異動になったが、2014年には、7月2日から同月23日まで二軍監督代行を務めた。二軍監督代行を務めたのは、2014年5月に一軍監督の星野仙一が自身と同じ黄色靭帯骨化症と腰痛の併発によって休養している間に、一軍の監督代行が佐藤義則(本来は一軍投手コーチ)→大久保博元(本来は二軍監督)と変遷したことによる[6]7月24日に星野が一軍監督に復帰したことに伴って、大久保も二軍監督に復帰したことから、酒井も二軍投手コーチに復帰[7]。大久保が退団した2015年には二軍監督を務めたが、シーズン終了後に球団へ退団を申し入れたため、10月4日には退団が発表された[8]

2016年から、コーチとしてオリックスに復帰。復帰当初は一軍投手コーチを任されていた[9]が、チームも一軍の投手陣もレギュラーシーズンの開幕から不調に陥ったことから、4月17日以降は二軍育成コーチへ異動になっている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1989 オリックス 36 16 5 0 2 9 7 9 -- .563 650 154.2 141 25 49 5 3 118 1 0 67 62 3.61 1.23
1990 31 10 2 1 0 6 5 5 -- .545 440 105.1 87 20 34 1 8 80 4 0 50 48 4.10 1.15
1991 20 19 3 1 0 5 8 0 -- .385 451 99.2 108 12 48 1 6 68 1 1 58 46 4.15 1.57
1992 22 21 9 1 1 10 11 0 -- .476 649 156.0 140 16 52 2 7 105 1 1 59 57 3.29 1.23
1993 8 6 1 1 0 3 0 0 -- 1.000 185 41.0 41 5 23 0 0 24 0 0 21 21 4.61 1.56
NPB:5年 117 72 20 4 3 33 31 14 -- .516 2375 556.2 517 78 206 9 24 395 7 2 255 234 3.78 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 18 (1989年 - 1996年)
  • 73 (2001年 - 2003年)
  • 75 (2008年 - 2010年、2012年 - 2015年)
  • 80 (2016年 - )

エピソード[編集]

  • 東海大学3年時まではオーバースローだった。3年時に同校野球部の見学にきた、当時解説者だった藤田元司から「酒井君の腰の回転はサイドスローに向いてるよ」とサイドスロー転向を勧められ、それまでのオーバースローからサイドスローにチェンジ。酒井はインタビューで「サイドにしてから、スムーズに投げられるようになった。藤田さんには本当に感謝しています」と語っている[11]
  • オリックス投手時代の一軍公式戦にはおおむね先発で登板していたが、入団1年目のシーズン後半から2年目の前半までは、チーム事情からストッパー(抑え役)を任されていた。もっとも、先発願望が強いあまり、当時受けていたインタビューでは「僕より球が速く、(酒井の持ち球にない)フォークがあるタカ(当時のチームメイトだった伊藤隆偉)の方が抑え役に向いている」という表現で先発への復帰を繰り返し訴えていた。
  • プロ野球の指導者としては、前述した自身の経験から、制球難などで伸び悩んでいるオーバースローの投手にサイドスローへの転向を勧める傾向が見られる。楽天では相原和友[12]、オリックスでは戸田亮大山暁史古川秀一高木伴齋藤綱記を、実際にサイドスローへ転向させた[13]。その一方で、オリックス二軍投手コーチ時代の2010年には、オーバースローからの投球時にピッチャーズプレートの三塁側を踏んでいた高卒2年目(当時)の西に対して、一塁側を踏むことを助言。西がこの助言を実戦で取り入れたところ、勝負球であるシュートを生かせるようになった。さらに、翌2011年に一軍公式戦で入団後初めての2桁勝利(10勝)を挙げたことを機に、一軍の先発陣へ定着している。

脚注[編集]

  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ オリックス平野が復活!2年ぶり完封!!
  3. ^ 『週刊ベースボール』2016年2月20日増刊「12球団選手名鑑号」(ベースボールマガジン社
  4. ^ 楽天、2軍投手コーチに酒井勉氏招へい”. デイリースポーツ (2011年10月31日). 2011年11月3日閲覧。[リンク切れ]
  5. ^ 新任のコーチについて”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年11月7日). 2011年11月7日閲覧。
  6. ^ 監督代行・コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2014年7月2日). 2014年7月2日閲覧。
  7. ^ コーチ人事に関して楽天球団公式サイト2014年7月24日配信
  8. ^ 酒井勉二軍監督の退団に関して楽天球団公式サイト2015年10月4日配信
  9. ^ オリ来季コーチ陣 1軍は準総取っ替え デイリースポーツ 2015年10月15日閲覧
  10. ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). http://www.sanspo.com/baseball/photos/20161123/tig16112305040011-p6.html 2017年9月8日閲覧。 
  11. ^ 『週刊ベースボール』1989年7月3日号「酒井勉インタビュー」(ベースボールマガジン社
  12. ^ “サイドスロー転向の楽天・相原 フォーム固めに汗「一軍帯同が目標」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2016年1月5日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/01/05/kiji/K20160105011807460.html 2018年2月4日閲覧。 
  13. ^ “オリックス世那 サイドスロー挑戦 飛躍のきっかけに”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2017年12月15日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/12/15/kiji/20171214s00001173200000c.html 2018年2月4日閲覧。 

関連項目[編集]