金刀比羅宮

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金刀比羅宮
本宮拝殿
本宮拝殿
所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
位置 北緯34度11分2.41秒
東経133度48分34.33秒
座標: 北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒
主祭神 大物主神
(相殿)崇徳天皇
社格 国幣中社・別表神社
本殿の様式 大社関棟造
札所等 さぬき十五社13番
地図

金刀比羅宮の位置(香川県内)
金刀比羅宮
金刀比羅宮
金刀比羅宮の位置
金刀比羅宮の位置(日本内)
金刀比羅宮
金刀比羅宮
金刀比羅宮の位置
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金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称され[1]、以降は、「さぬきのこんぴらさん」の呼び名で知られる[2]

御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)

概要[編集]

金刀比羅宮の参道

真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。明治初年に神仏分離廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社宗教法人金刀比羅本教の総本部となった[3]。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である[4]

当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。

長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。

祭神[編集]

歴史[編集]

由緒[編集]

金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである[5]大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする[6]。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡[7]の雲気神社[8][9]が金刀比羅宮という記述がある。

保元元年(1156年)讃岐国に配流された崇徳上皇は讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮した[10]と伝えられていることから、崩御の翌年の永万元年(1165年)に本社相殿に奉斎した[11]とされている。修験道の御霊信仰の影響であると云われている。

1573年(元亀4年)松尾寺金光院院主・宥雅[12]が、金毘羅堂を建立し金毘羅大権現を祀る。 その後、1579年(天正7年)長宗我部元親が当山を讃岐の宗教上の拠点にしようと侵入してくると反長曽我部だった宥雅が堺に亡命するや長曽我部は宥厳[13]を院主に据え、1584年(天正12年)には仁王堂(現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から退去する。そして、1600年に宥厳は元親により土佐へ呼び戻され、その弟子の宥盛が跡を継ぐ。なお、長曽我部による讃岐国侵攻で多くの古い記録が焼失[14]、当山も荒廃したが、金光院院主となっていた宥盛が信仰を広め境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。1606年自らの像を作って本殿脇に祀り1613年亡くなった後しばらくして観音堂後堂[15]に尊体は法衣長頭襟姿で脇に不動明王と毘沙門天を配し[16]秘仏として祀られていたが、現在は奥社に祀られている[17]

江戸時代[編集]

金毘羅講燈篭
江戸時代に江戸の商人が寄進した燈篭で、香川県丸亀市の港に一基が現存し、寄進者の名を冠し太助燈篭(たすけどうろう)と呼ばれている。

江戸時代初期には、金光院院主の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国から技術者を招いたといわれる。そして、長宗我部退却後は生駒藩や松平藩から保護され寄進を受け繁栄していった。

江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がった。各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになり、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる[18]。その様子は、浮世絵東海道五十三次の一つである「沼津」や、滑稽本東海道中膝栗毛に描かれている。奉納も多く行われ、奉納された石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたほどであった[19]

江戸時代後期には、由加山蓮台寺由加神社本宮)が同じ権現である喩伽権現を祀っているということで、瀬戸内海周辺で一番人気のあった当山にあやかろうと本州方面から当山への道中であったこともあり、金毘羅大権現と喩伽権現の両方を参拝する「両参り」をアピールし成功していた。さらに明治期には、西大寺が当社の不動明王と毘沙門天(詳細は後述)を牛玉所(ごうしょ)殿に迎え「三所参り」として西大寺も参拝することを勧めた。また、四国内でも、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする山伏寺が各地に現れたため、宝暦10年(1760年)には「日本一社」の綸旨を高松藩からいただきそれらは当山とは関係ないことを示すが止めることは難しかった。

江戸時代末期には民謡金比羅船々[20]が歌われ始める。

明治以降[編集]

琴陵宥常像
金刀比羅本教総本部

明治元年(1868年)3月の神仏分離令に際し、第19代金光院別当であった琴陵宥常(ことおかひろつね1840年~1892年)[21]は当山の存続を守るため神仏混淆であった「象頭山金毘羅大権現」を「琴平山金刀比羅宮」[22]と改称して神道の神社とし、御本社金毘羅大権現は、主祭神の名を大物主神と定め相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀り、象頭山松尾寺金光院は廃されそのまま社務所になり、他の五つの塔頭は廃止となり、自らは復飾し大宮司就任を許されずも社務職にとどまりさまざまな変更をした[23]。明治元年9月13日には勅祭神社とされる[24]

主な堂宇の変革として、観音堂は大年社を経て三穂津姫社となり本尊十一面観音菩薩(重要文化財)は宝物館に展示され、金堂は天御中主神ほか二神を祀る旭社となり本尊薬師如来と十二神将は不明となる。観音堂後堂に祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座され宥盛像は不明、その脇仏とみられる不動明王毘沙門天の二体は破却の危機に直面したが塔頭の萬福院住職宥明によって救い出され岡山に渡り、その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年岡山市西大寺の住職光阿によって同寺に移され、その二体で金毘羅大権現とし、牛玉所権現(五大明王)とともに牛玉所殿に祀られ現在に至る[25]。慶長9年(1604)金光院本坊内に護摩堂と共に造られたものと思われる不動明王立像一体が海岸寺に祀られ、2代目の不動明王[26]は宝物館に展示されている。護摩堂と同時期に横に造られた大師堂は廃止となり、大師像(県指定文化財)は現在の松尾寺へいち早く遷座される。多聞天と持国天を有した二天門は賢木門となる。金剛界大日如来を本尊とする13間5尺余(高さ約25m)と云われる大型の多宝塔は廃棄され今は馬の銅像が立つ。大門は左右の金剛力士像が武者像に変わり存続、経蔵は文庫になり、鐘楼は麓の興泉寺地図 へ売却。その他にも阿弥陀堂・不動堂・摩利支天堂・毘沙門堂・孔雀堂・行者堂・三十番神社などが摂末社に変更され多くの仏像経巻仏具等が売却または焼却された。なお、神仏分離に反対していた重鎮の宥暁が住職である普門院が唯一再興し、松尾寺普門院として法灯を継承し、明治5年に「浦の谷」で焼かれた仏像仏具から逃れたいくつかの仏像を所蔵している。

近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に国幣小社に列格し、明治18年(1885年)に国幣中社に昇格した。

古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体はかつては神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されていた。

令和元年(2019年)の天皇即位に伴う大嘗祭当日祭に供される臨時の神社本庁幣帛料が送付されなかったことなどを理由として、2020年6月5日に金刀比羅宮は神社本庁に対して「被包括関係を廃止する」との通知を送付した。2020年11月、神社本庁からの離脱が承認され単立神社となった[4]

境内[編集]

象頭山の中腹に鎮座し、参道の石段は本宮まで785段、奥社まで登ると1368段になる[4]

本宮エリア[編集]

  • 本宮
    • 本殿:1878年再建。桧皮葺・大社関棟造り。祭神は 大物主神崇徳天皇を合祀。
    • 幣殿:桧皮葺・大社関棟造り。
    • 拝殿:桧皮葺・大社関棟造り。
    • 神饌殿:本殿の向かって右、入母屋造・檜皮葺。神饌を調進する所。
    • 北渡殿:神饌殿と拝殿をつなぐ回廊。
    • 北透垣:神饌殿のさらに右側にあり本殿背後の神職も入ったことがないとされる禁足区域の森(この森の中に洞窟があり金毘羅大権現が鎮座しているという信仰があった)への進入を防ぐ。
    • 直所:本殿の向かって左。詰所。
  • 神楽殿:本殿の向かい。
  • 神札授与所:本殿の向かい。
  • 南渡殿:本宮と三穂津姫社をつなぐ約40mの回廊。
  • 三穂津姫社(御別宮)
    • 本殿:1876年造営。檜皮葺・王子造。祭神は三穂津姫神。
    • 中殿:檜皮葺。
    • 拝殿:檜皮葺・大社関棟造。
    • 神饌殿:三穂津姫社の向かって右。
    • 直所:三穂津姫社の向かって左。
    • 祓除殿:直所の後ろに回廊でつながる。
  • 御炊舎:三穂津姫社の向かい。1874年建立。
  • 睦魂神社(むつたまじんじゃ・祠):南渡殿の奥の斜面。王子造・銅葺。祭神は大国魂神ほか二柱[27]
  • 神庫・神輿庫:南渡殿の奥の斜面。
  • 厳島神社(いちきしまじんじゃ・祠):三穂津姫社の向かい。入母屋造平入・檜皮葺。祭神は市寸姫尊。
  • 絵馬殿:航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られ、安全祈願をした漁船タンカーの写真やソユーズに搭乗した秋山豊寛の絵もある。
  • 緑黛殿(りょくたいでん):南西端。2004年5月竣工、建物は村野藤吾賞および日本芸術院賞受賞。参集所や斎館などの施設
  • 高台:北東端。展望所で人工に造られた。讃岐平野が見渡せ讃岐富士が臨める。

本宮エリアまでの上り[編集]

参道の最初の1段
  • 大宮鳥居:JR琴平駅前、ことでん琴平駅横に立つ。
  • 一之坂鳥居
  • 備前焼狛犬:一之坂鳥居の両側にいる。1844年奉納され、高さ約5尺(重要有形民俗文化財)
  • 灯明堂・釣燈籠:石段に沿って立ち中に数基の灯籠が並んで吊るされている。1858年建築(重要有形民俗文化財)
  • 金刀比羅本教総本部:1877年建築。
  • 鼓楼(ころう)と清塚:大門傍にあり、中にある時太鼓は今も朝夕に打ち鳴らされる。造りがに似ていることから「琴平城」とも呼ばれている。1710年建築。清塚は鼓楼脇にあり清少納言の墓と時の別当は考えたと云われている。
  • 大門(おおもん):高松藩主松平頼重が1654年頃寄進し仁王門であったが今は門の中の両側に弓を持つ武者が控える。これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の「五人百姓」[28]が加美代飴を売っている
  • 桜の馬場:約150mの平坦な石畳で春は両側に桜咲く道になる。
  • 宝物館(登録有形文化財):明治38年(1905年)に建てられた石造、二階の宝物館。かつて観音堂の本尊であった重要文化財の十一面観音立像を拝観できる。
  • 御厩:月琴号・ルーチェ号の2頭の馬が飼われている。この奥にトイレがあり参拝者はここで済ませてから参拝のこと。
こんぴら狗
  • こんぴら狗(いぬ):飼い主に代わって代参した犬の像。
  • 高橋由一館:近代の洋画家高橋由一個人美術館。一般公開されている。
  • 着見櫓:大名行列の見張所。
表書院の庭園林泉
  • 書院
    • 社務所門:切妻造平入・銅葺
    • 社務所
    • 表書院(重要文化財):万治2年(1659年)に建立された書院造りによる建物。内部の五間には円山応挙が、邨田丹陵が二間、森寛斎が一間の障壁画が飾られている。また前池躍魚と称される池泉鑑賞式庭園林泉や蹴鞠が催される前庭が鑑賞できる。一般公開されていて、大人料金800円。
    • 白書院:明治10年建造、非公開
    • 奥書院(重要文化財):非公開
    • 四脚門(重要文化財):参道脇にある黒門から奥に見え通常は閉まっている。書院の正門。
  • 木馬舎:木製の等身大の馬が一頭。ここの右下にカフェ&レストラン神椿がある。
  • 祓戸社(はらえどしゃ・祠):祭神は瀬織津姫ほか三柱。
  • 火雷社(ほのいかづちしゃ・祠):祭神は火産霊神ほか五柱。
  • 旭社(後述)
  • 賢木門(さかきもん):唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根。天正12年(1584)長曽我部元親が寄進。元親軍の往来の邪魔になるので火をつけると暴風が起こり木の葉が数千の蜂となり襲いかかる神罰にあい恐れをなし、神仏に詫びて、その夜のうちに再興したところ慌てて柱を逆に建ててしまったことから「長曽我部の逆木門」と呼ばれた。しかし、この逸話は長曽我部を辱めるための創作で、それまでここに門は無かった。万治3年(1660)京仏師弘教宗範咲の彫った持国・多門の二天が安置され、二天門となる。明治12年(1879)の改築の際に逆木門の「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになった。
  • 遙拝所:ここから伊勢神宮や皇陵を拝するところ。明治初年の建立。
  • 闇峠 - 本宮手水舎 - マイナス1段 - 連籬橋
  • 真須賀神社(ますがじんじゃ・祠):入母屋造。祭神は建速須佐之男尊と后神。
  • 御年神社(みとしじんじゃ・祠):流造。祭神は大年神、御年神、若年神。
  • 事知神社(ことしりじんじゃ・祠):流造・銅板葺。祭神は積羽八重事代主神ほか二柱。
  • 本宮(前述):最後の133段の「御前四段坂」を上ると本宮前に。

本宮エリアからの下り[編集]

  • 大山祇神社(祠):本宮エリアからの下り石段の途中。流造。祭神は大山祇神。
  • 旭社(重要文化財):天保8年(1837年)に二万両の寄進で建てられた銅瓦葺の二層入母屋造の建物で高さ約18m、神仏分離以前は金堂であり薬師如来と十二神将を金毘羅大権現として鎮座していたが、現在の祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神で本宮を参拝した後に参拝する習わしである。全体に多くの美しい彫刻がなされ、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本殿へ行かず、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。旭社に向かって右前にある雨水を溜める大きな鉄瓶に一円玉が浮かぶと願いが叶うという。
  • 廻廊:旭社の向かい。1854年建立、1901年改築。約32m。

本宮エリアから山頂へ[編集]

本宮の神饌殿の右の北透垣の奥にある鳥居が上り口
  • 常磐神社(祠):祭神は武雷尊、誉田和気尊。
白峰神社の随身像
  • 白峰神社(しろみねじんじゃ):本殿に祀られている崇徳天皇の神社として坂出市の白峯寺にある頓証寺殿を明治11年4月に白峯神社とし当社の摂社としていたが、明治31年9月に白峯寺へ返還し、当地に新たに白峰神社を創建して崇徳天皇を祀った。
    • 本殿 :大正2年建造、流造。祭神は崇徳天皇、待賢門院、大山祇神。
    • 随身門:白峯寺頓証寺殿の勅額門から明治31年に移された源為義・為朝像
    • 拝殿:入母屋造
    • 御守所:ご朱印あり。
  • 菅原神社(祠):祭神は菅原道真命。
  • 厳魂神社(いづたまじんじゃ):奥社と呼ばれ、1368段の石段を登りきった先に鎮座する。戦国時代の別当金剛坊宥盛(慶長18年1月6日没)を明治に入り厳魂彦命として祀った。
    • 本殿:檜皮葺・流造、明治38年建立
    • 向唐門:檜皮葺
    • 拝殿:檜皮葺・入母屋造
    • 御守所:ご朱印あり。
    • 威徳巖:社殿に向かって左の岩壁で天狗とカラス天狗の彫物が掛けてある。
  • 龍王社(祠):山頂にある。

周辺の関連項目[編集]

  • 門前街:門前町の琴平町には多くの土産物屋が並ぶ。参道は江戸時代には「金毘羅街道」と呼ばれ多くの燈篭が備えられ、丸亀多度津の港は参道口として栄えた。
駕籠タクシー
  • 駕籠タクシー:一之坂鳥居前から大門まで有料で参詣客を送迎していた。担ぎ手の後継者がいないことから、2020年(令和2年)1月をもって廃止された[29][30]
  • 鞘橋(登録有形文化財):門前の金倉川に架かる橋。銅葺唐破風の屋根がかかるアーチ式の木造橋で、のように反った形から鞘橋と呼ばれる。洪水で何度も架け替えられ、現在の橋は明治2年(1869年)に阿波国鞘橋講中により寄進された。例大祭の時のみ用いられる。
  • 高燈篭:琴電琴平駅の隣に建つ。1860年完成で、高さ約27m。(重要有形民俗文化財 1979年5月21日指定)[31]
  • 旧金毘羅大芝居(重要文化財):金丸座とも呼ばれ、天保7年(1836年)参道近くに建てられた、現存する日本最古の芝居小屋で、今も毎年春に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」として歌舞伎が公演される。
  • 海の科学館(琴平海洋博物館):参道22段目を左に入るとすぐ。海や船と触れ合う展示館。
  • 金陵の郷:琴平の酒蔵である金陵が参道に面し設けた日本酒の資料館で、江戸時代の酒造りに用いられた道具などを見ることができる。
  • カフェ&レストラン神椿:木馬舎の右脇からすぐ下にある。カフェは9:00〜17:00、レストランは11:30〜15:00(ランチ)・18:00〜21:00(予約制ディナー)
  • 裏参道:宝物館の脇から石段のない閑静な道が続く。
  • 神苑:表参道と裏参道の間の区域を散策することができ鏡池などがある。金刀比羅本教総本部の前から入る。
  • 金毘羅街道(旧伊予土佐街道 ):当時は、土佐・伊予と讃岐をつなぐ唯一の街道であった。このため幕末には坂本龍馬中岡慎太郎などの脱藩者が丸亀に抜け上方へ出て行ったという。また、逆に幕府に追われた高杉晋作が、下記の牛屋口から伊予国境を抜け川之江から船で長州に逃れたという。
  • 牛屋口(うしやぐち):象頭山南側にあり、当社の南の入口で鳥居や燈篭などがあり観光用として坂本龍馬像がある。一説によると、巡見使や殿様の代わりに参詣する使者が通ったので「お使者口」と云っていたという。当社への街道として、また主要道路であった時期には繁栄しており、多くの石燈篭にも大正末期頃まで明かりが灯っていた。しかし、新しい国道などが町内を通ると共に衰退し、石燈篭の一部を盗まれるなど、荒廃が進み、現在では鳥居や石燈篭を残すのみとなり、「峠の茶屋」(藁葺き小屋)は使用されていない。ここが参拝に使われるのは、地元の人が正月にわずかに通るのみである。ここから神社までの街道途中に広谷墓所があり、代々の別当職が眠る墓が建てられている。なお、この先には保全のための本宮エリアまで通じる道路(管理者も駐在し一般者は通行不可)やレストラン神椿まで行ける道路(利用者のみ通行可)がある。
  • 香川県道207号琴平停車場琴平公園線:表参道のうち、石段の手前までが属している。

文化財[編集]

遊鶴図(円山応挙筆、17枚のうち)
遊虎図(円山応挙筆、24枚のうち)
竹林七賢図(円山応挙筆、16枚のうち)
瀑布及山水図(円山応挙筆、33枚のうち)

重要文化財[編集]

建造物
  • 表書院 昭和30・6・22指定[32]
  • 奥書院 昭和30・6・22指定
  • 旭社附棟札2枚 昭和57・2・16指定
  • 四脚門 昭和57・2・16指定
美術工芸品
  • 絹本著色弁財天十五童子像 明治34・3・27指定
  • 紙本著色なよ竹物語絵巻 明治34・3・27指定
  • 紙本墨画遊鶴図 17枚 明治34・3・27指定
円山応挙の筆による表書院「鶴の間」の障壁画。
  • 紙本墨画遊虎図 24枚 明治34・3・27指定
応挙の筆による表書院「虎の間」の障壁画。日本にはがいなかったため、虎の毛皮を見ながら描いたと伝わる。
  • 紙本墨画竹林七賢図 16枚 明治34・3・27指定
応挙の筆による表書院「七賢の間」の障壁画。
  • 紙本墨画瀑布及山水図 33枚 明治34・3・27指定
応挙の筆による表書院「山水の間」及「上段の間」の障壁画。
  • 木造十一面観音立像 大正8・8・8指定
平安時代に作られた檜材の一木造、像高144cm。頭に着けられていた10面の仏や装飾および台座は失われている。旧松尾寺の観音堂の本尊であった。
  • 太刀 銘長光 明治44・4・17指定
  • 太刀 銘備州長船(以下不明)明徳(不明)年(不明)月 大正12・3・28指定
師光による作と伝わる。
  • 短刀 銘筑州住国弘作 大正11・4・13指定
  • 伏見天皇宸翰御歌集 大正8・8・8指定

重要有形民俗文化財[編集]

  • 金毘羅庶民信仰資料 1,725点 昭和54・5・21指定

名勝・天然記念物[編集]

  • 象頭山 昭和26・6・9指定

登録有形文化財[編集]

  • 鞘橋 平成10・4・21指定

県指定有形文化財[編集]

  • 紙本著色金毘羅祭礼図六曲屏風 1双 昭和49・6・15指定
  • 紙本金砂子地著色百花の図伊藤若冲筆 18枚 昭和49・6・15指定
  • 紙本金地著色若松の図岸岱筆 18枚 昭和49・6・15指定
  • 紙本金地著色花菖蒲に水禽の図岸岱筆 16枚 昭和49・6・15指定
  • 紙本金地著色群蝶の図岸岱筆 4枚 昭和49・6・15指定
  • 紙本金地著色柳に白鷺の図岸岱筆 26枚 昭和49・6・15指定
  • 太刀銘:定利 平成8・11・8指定
  • 太刀銘:助真 平成8・11・8指定
  • 刀 銘:肥前国忠吉 平成8・11・8指定
  • 紙本墨書保元物語 昭和49・6・15指定
  • 紙本墨書平治物語 昭和49・6・15指定

年間祭事[編集]

三大祭り[編集]

月毎の大祭り[編集]

その他の主な祭り[編集]

信仰上の伝統[編集]

海運の守護神であるため、必然的に奉納を行うのは海運関係者や漁師が多い。そのため、金刀比羅宮の近くの海域を通過する金刀比羅宮へ直接参詣できない船が金刀比羅宮の加護を得るため、酒を入れた樽に「奉納 金刀比羅宮」と書いた白幡を付けて船から海に落とし、それを見つけた漁師が拾って金刀比羅宮に代わりに奉納(代参)する「流し樽」という風習がある。これは現在でも海上自衛隊の艦艇の処女航海など、当該海域を通る様々な船舶の乗組員によって行われている[33]

また、江戸時代にはに飼い主が初穂料と犬の道中の食料などを首にかけて代参させることもあったという。その犬は道中の人々の善意によって金刀比羅宮へ連れて行かれた[34]

金刀比羅宮発祥のサクラの品種[編集]

金刀比羅宮が発祥のサクラ栽培品種としてコトヒラ(琴平)とヤオトメ(八少女)がある。コトヒラは1928年に京都の佐野藤右衛門が金刀比羅宮にあったサクラから穂木を採取して佐野園で増殖して各地に広まった、白色の花弁の中輪の八重咲きの栽培品種である。金刀比羅宮にあった原木や佐野園の個体は失われているが、1994年に石川県林業試験場から里帰りとして贈られた1本が表書院の社務所門の内側の石畳沿いに植栽されている。ヤオトメは社務所門を挟んでコトヒラの向かい側の土手に植わっている古木で、淡紅色の花弁の大輪の一重咲きの栽培品種である。以前まではコトヒラと混同されるなどして栽培品種名がつけられていなかったが、鑑定の結果今までに確認されていない栽培品種と判明したため、2020年春に巫女の舞にちなんでヤオトメ(八少女)と名付けられた[35][36]

交通[編集]

鉄道
自動車
境内は許可車両以外の乗り入れができないため、琴平町内の町営駐車場などを利用。

なお、かつては琴平参宮電鉄(1963年まで)・琴平急行電鉄(1944年まで)といった路線も琴平に発着しており、1930年~1944年には4つの路線がひしめき合っていた。

分社[編集]

正式な分社は6社のみである。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 金刀比羅宮”. コトバンク. 2020年6月14日閲覧。
  2. ^ 讃岐の金毘羅さんで、さんは敬称である。
  3. ^ 明治42年(1909年)唯一廃寺を免れた松尾寺普門院は建物・宝物の所有権と返還を求めて金刀比羅宮を相手に訴訟を起こしたが、明治43年(1910年)7月7日高松地方裁判所は原告の請求を棄却する判決を下した。
  4. ^ a b c 神社本庁激震!“こんぴらさん”が離脱、「本庁は天皇陛下に不敬極まる」”. ダイヤモンド・オンライン(ダイヤモンド社) (2020年6月12日). 2020年6月13日閲覧。
  5. ^ 金刀比羅宮 - 由緒
  6. ^ 象頭山松尾寺普門院の略縁起 新四国曼荼羅霊場ホームページ - 香川部会 - 第16番松尾寺
  7. ^ 現在の所在地:香川県善通寺市弘田町1105地図
  8. ^ 雲気神社
    雲気神社
  9. ^ 善通寺市デジタルミュージアム
  10. ^ 実際にはこのころ上皇は国府の衛兵に監視のもと幽閉された状態で当地へ来ることはできなかった
  11. ^ 金刀比羅宮 - 崇徳天皇
  12. ^ 俗名は長尾高広で善通寺で修行をし善通寺の末寺である称名院(当山下方にあった念仏寺院)院主となる。当地一帯の有力武将で西長尾城地図 城主長尾大隅守の甥(または弟)で長尾一族の支援を受けることができたが、長曽我部が当地に侵攻してからは一族と政敵となり長曽我部が当山に来ると身が危うかった。
  13. ^ 延光寺の子院である南光院々主で修験者であった。元親の信頼厚く見捨てられることなく1600年延光寺住職として呼び戻され1605年に亡くなった。
  14. ^ 金刀比羅宮 過去から現代へ”. 三重県立美術館. 2020年6月13日閲覧。
  15. ^ 同一の建物内で観音像を祀る内陣の壁の背後の空間のこと。
  16. ^ 澄禅が承応2年(1653年)に巡拝した記録『四國辺路日記』に、「寺主の上人が私のために開帳してくれた。尊体は法衣長頭襟、左右に不動毘沙門像」と記述されている
  17. ^ その仏像が鎮座しているとも明治5年に他の仏像と一緒に焼却されたともいわれるが不明である
  18. ^ 金刀比羅宮 - こんぴら狗
  19. ^ "こんぴらさん 〜人はなぜ"こんぴらさん"を目指す?〜". ブラタモリ. 21 January 2017. NHK総合
  20. ^ 歌詞「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」
  21. ^ 伝記研究に、西牟田崇生『黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常』国書刊行会、2004年。
  22. ^ 明治元年6月に琴平神社となる。同年7月、金刀比羅宮に改称。明治4年6月から「事比羅宮」と表記されたが、明治22年7月、再び金刀比羅宮となる
  23. ^ 2代目大宮司になったのは明治19年(1886年)に鹿児島から来た初代が亡くなってからである。
  24. ^ 讃岐金刀比羅宮ヲ以勅祭神社ト為ス」、『太政類典』第1編(慶応3年~明治4年)、第122巻、3。
  25. ^ 金毘羅大権現 - 西大寺観音院(岡山県西大寺)
  26. ^ 明暦年間(1656)もっと優れたものをと像高162cm伝智証大師作を比叡山から迎え安置
  27. ^ 現地の説明看板より、以下も
  28. ^ NHKアーカイブスこんぴらさん~五人百姓 金刀比羅宮を支える五家族
  29. ^ “金刀比羅宮表参道 石段かご、来月営業終了 参拝客ら惜しむ声”. 四国新聞. (2019年12月27日). https://news.line.me/issue/oa-shikokunews/27be7cb95456?utm_source=Facebook&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=OBf77434699440&fbclid=IwAR2s7A_7Vgo3efTIU7SIPiTfoaUrZp0xc_a4Xoo1NK4kR7u3aT2r7O6cO1k 2020年4月11日閲覧。 
  30. ^ “「それでは姫様参りますよ」参拝客を乗せ長い石段上る こんぴらさんの「石段かご」廃止へ 香川”. 瀬戸内海放送. (2020年1月15日). https://www.ksb.co.jp/sp/newsweb/detail/16018 2020年4月11日閲覧。 
  31. ^ 現地看板より
  32. ^ 香川県教育委員会のホームページより
  33. ^ こんぴらさん~流し樽 樽が運ぶ 海の男の願い事”. NHK. 2017年2月8日閲覧。
  34. ^ こんぴら狗”. 金刀比羅宮. 2017年2月8日閲覧。
  35. ^ 勝木俊雄『桜の科学』p177 - p181、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319
  36. ^ こんぴらの桜 “八少女”に NHKニュース 2020年5月12日

参考文献[編集]

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、30頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、144-146頁
  • 菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、210頁
  • 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、250-251頁
  • 『神道の本』学研、1992年、210頁

関連文献[編集]

  • 琴陵光重 『金刀比羅宮』日本の神社シリーズ・学生社、1970年
  • 『金刀比羅宮 こんぴらさんへの招待』 藤田健写真、筑摩書房、2000年
  • 『金刀比羅宮の美術 思いもよらぬ空間芸術』伊藤大輔編、小学館アートセレクション、2004年