金子鋭

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小千谷市白山運動公園内の金子鋭像。

金子 鋭(かねこ とし、1900年3月17日 - 1982年2月24日)は、日本銀行家富士銀行頭取、会長。第6代プロ野球コミッショナー1961年藍綬褒章1970年勲二等旭日重光章を受章。新潟県小千谷市名誉市民

人物・来歴[編集]

新潟県立小千谷中学校官立第七高等学校を経て、東京帝国大学政治科を卒業。帝大時代は大正デモクラシーの時代でもあり、蝋山政道、福岡誠一らと社会改良に関して語り合う一本筋の通った青春時代を送った。

1924年、安田銀行へ入行(後に富士銀行に改称)。1949年副頭取、 1957年頭取、1963年会長、1975年顧問[1]

明治生まれの硬骨のバンカーとして知られ、会長に退いてからは財界で活躍。また大の巨人軍ファンであったことから政財界人で後援組織「無名会」を結成。初代会長に就任した[1]

1965年8月、日本野球機構のプロ野球コミッショナー委員会委員に就任。1969年10月、同委員会で宮澤俊義委員長、中松潤之助の3人で黒い霧事件の対応を審議。池永正明永久追放を強硬に主張し、実現させたといわれる(2005年4月25日解除)。またドラフト制度の導入に尽力した。

1976年7月、大濱信泉の死去を受け、第6代コミッショナーに就任した[1]。1978年の江川事件の事案処理では、当初、金子は「江川が巨人と結んだ契約は無効で、ドラフト会議で指名した阪神と入団交渉を進めるべきである」と発表。世論の多くの支持を受ける。しかし、巨人に新リーグ構想で揺さぶりをかけられ、12月中旬でありながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれた。それによって、強権を発動する形で「江川が阪神に入団後、巨人にトレード」という「強い要望」を発表。「朝令暮改」と世間の非難を浴び、 1979年2月、非難を踏まえコミッショナーを辞任した[2]。 金子は江川事件について、最後まで自己弁明の機会を設けなかったが、晩年に至っても、プロ野球については新聞記事を見ることさえも嫌っていたとの話も伝わる。

1982年2月24日呼吸不全東京医科歯科大学医学部附属病院で死去。81歳[1]

郷里の小千谷市白山運動公園内に、金子の胸像が建立されている。

エピソード[編集]

1978年の日本シリーズ第7戦では、ヤクルト大杉勝男が放ったホームランの判定に抗議し続ける阪急の上田利治監督に対し試合の再開を説得した。金子が説得する肉声は集音マイクを通じてテレビでも放送された。金子は怒気を含んだ声で「(コミッショナーである)わしが(頭を下げて)頼んでも駄目か!」を繰り返している。作家の近藤唯之は金子の恫喝ともとれる傲慢な態度と、その説得力のない言葉に「俺の酒が飲めないのか」と下戸の後輩社員を責める酔っ払いのサラリーマンと同じレベルだと、著作で述べている。この時までに上田監督の要求は「審判を代えてくれ!」に変わっていた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「前プロ野球コミッショナー 財界の重鎮 金子 鋭氏死去」『読売新聞』1982年2月25日
  2. ^ 金子 鋭”. コトバンク. 2018年7月27日閲覧。