金田正泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
金田 正泰
Kaneda Masayasu.jpg
1952年頃
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 (1920-07-21) 1920年7月21日
没年月日 (1992-12-05) 1992年12月5日(72歳没)
身長
体重
170 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1942年
初出場 1942年3月28日
最終出場 1957年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 大阪タイガース
    阪神タイガース (1958 - 1961, 1972 - 1974)

金田 正泰(かねだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身(朝鮮慶尚北道生まれ)の元プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者

シーズン最多3塁打の日本記録保持者(18本)。

経歴[編集]

現役時代[編集]

生家は神社で、プロ入り前までは竹村姓だった[1]。その後に平安神宮の宮司の養子となり、金田姓となった[2]旧制平安中学時代は1938年から1941年にかけて4年連続で春の選抜に出場。1938年は夏の選手権にも出場。卒業後は各球団からオファーがあったが、1942年阪神軍へ入団。戦時下で選手数が不足していたため、2年目の1943年にはレギュラーとなったが、打撃成績は他の選手に劣るものだった。

戦後の1946年に152安打・打率.347で首位打者最多安打に輝いた。この年から金田に加えて、呉昌征土井垣武藤村富美男本堂保次などリーグを代表する打者を並べた阪神打線は「ダイナマイト打線」と命名された。同年シーズンオフには「扶養家族が多く、年俸8000円では生活できない」という理由で退団。ブローカーに転身したが、1947年の開幕日に復帰。この年も打率がリーグ2位の好成績を収め、チームの優勝に貢献。1949年に結婚して日本に帰化するが、同年シーズンオフに別当薫・土井垣ら主要打者が毎日オリオンズに引き抜かれた。藤村と共に残留した金田は1番打者として奮闘し、1951年にはシーズン18三塁打の日本記録を樹立(2016年現在も破られていない)。1955年には球団初の開幕戦初回先頭打者本塁打を放つ(タイガース日本人選手としては現在も史上唯一、2011年マット・マートンが記録)。1956年には「藤村排斥事件」の中心人物となる。1957年にはレギュラー左翼手の座を大津淳に明け渡し、同年限りで現役を引退。三塁打103本は阪神の球団記録である。

解説者・監督時代[編集]

引退後は1958年からタイガースの二軍監督に就任したが、1959年5月21日から一軍コーチ、シーズンオフの11月25日に監督に昇格。巨人軍の元監督の藤本定義をヘッドコーチに招聘し、1960年は3位の成績を残すが、翌1961年はシーズン序盤から低迷し6月に休養、招聘した藤本が後任の監督になった。阪神退団後は日本教育テレビ毎日放送などで解説者1962年 - 1971年)を務めた。

1972年村山実投手兼任監督に請われてヘッドコーチとして11年ぶりに阪神に復帰。しかし開幕から低迷を続け、4月21日から村山実が投手専念をのために、一時的に指揮権を譲られ(名目上はあくまでも村山が監督のまま)、結果としてすぐに勝率5割に戻す。役割を果たした金田は5月13日戸沢一隆球団代表に指揮権返上の旨を伝えるが、これに対して戸沢はその必要はないと引き続き指揮を執るように指示。その後も何度も指揮権返上の話が出るが戸沢はあくまでも認めず、最終的に阪神は2位でシーズンを終了する。そして指揮権を奪われたままの村山はそのまま引退・退団するとともに金田が正式な監督に昇格した[3]。しかし表面的にこれが金田が村山を追い出したように映ってしまい、村山に近い選手たちから激しい恨みを買うことになる。

1973年はリーグ全体が大混戦の中、巨人と阪神がシーズン最終盤までデッドヒートを展開。しかし最終戦残り2試合でマジック1という状況から連敗し、最終戦で巨人の逆転優勝でV9を許した。中でも最終戦の残り2試合である中日・巨人戦は、それぞれ上田二朗江夏豊が登板予定であったが、直前で登板を江夏→上田に変更している。この起用法について疑問が生じる事もあるが

  • 上田自身が死のロードを迎えた8月12日以降、急に勝てなくなっていた(4勝8敗)
  • その前の10月11日の後楽園球場での対巨人戦でも打ち込まれていた。
  • 中日戦を迎える数日前から上田は扁桃腺を腫らし風邪気味で体調が悪かった[4]

これらの理由でこのまま上田を強行登板させるよりも、藤村隆男ピッチングコーチと相談して江夏の勝負強さに賭けようとなった。

なお、この起用について江夏自身は自伝で『あとで中日戦は上田で巨人戦は江夏でいけばよかったという声もあったけれど、それは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら、勝ち星の多い方からいくのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということです。』とその起用法に理解を示している[5]。上田自身もまたこの事について、中日戦の登板を望んでいたものの、『金田監督が確執があるとは言えエースである江夏をなんだかんだ言って信頼して最終的には託したのだろう』と振り返っている[6]

それとは別に同シーズンは江夏をはじめ、村山の大学の後輩に当たる藤井栄治鈴木皖武との確執など一部の主力選手との対立が激化した。そしてシーズン終了後の11月、江夏が「金田監督の下ではプレーができない」と表明し内紛が表面化。同時に藤井はシーズン終了後にトレードで太平洋クラブライオンズに移籍した。また5月に金田が権藤正利に対し、「サルでもタバコを吸うのか?」という暴言を口にしたとされ[7]。シーズン終了後の1973年11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場内で権藤から、その暴言に対する謝罪を求められても受け入れなかった為、殴打された[8]。権藤はすぐに金田に謝罪したものの、リーグから厳重戒告処分、球団からは謹慎処分が下されたが、権藤はそれ以前から引退を決めており、実働20年の連盟表彰を捨てての殴打事件だった(権藤は大変温厚な人物として知られていた。最終的には自由契約で退団)[9][10]。それらを踏まえて金田は12月に「江夏を抱えてのチーム作りに自信がない」と辞意を表明。しかし両者の意見をそれぞれ聞く形で収拾に乗り出した戸沢一隆球団代表によって、最終的に金田は続投、江夏も監督に従う事でチームに残ることとなった。

1974年は、チーム内部がバラバラだったにもかかわらず前半首位で折り返す。しかし後半戦に失速し最終的には4位に後退したため辞任。またこの年は二軍にいた1年目で無名選手であった掛布雅之を周りの反対を押し切って一軍に抜擢。掛布もそれに応え、その後のスター街道を歩むことになった。この事について掛布は「金田正泰監督がいなければ、その後の僕は存在していなかったかもしれない」と著書で金田に感謝の意を示している[11]

監督退任後[編集]

監督辞任後は解説者・評論家や少年野球軟式野球の指導者・役員[12]などの活動をせず、球界から一線を引く。小武内(おぶない)姓となり、大阪市内で麻雀店とステーキ店を経営。1992年12月5日急性心不全のため死去。72歳没。葬儀は密葬だったこともあり、球界関係者の姿は多くはなかったが、1972年にヘッドコーチとして入閣した時の監督だった村山は葬儀に参列した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1942 阪神
大阪
68 179 142 14 21 2 1 1 28 4 5 5 9 -- 27 -- 1 22 -- .148 .288 .197 .485
1943 78 262 207 26 51 7 1 2 66 13 10 4 15 -- 39 -- 1 16 -- .246 .368 .319 .687
1944 24 103 83 13 16 2 3 1 27 7 0 2 4 -- 16 -- 0 10 -- .193 .323 .325 .649
1946 105 494 438 77 152 19 13 1 200 61 10 13 6 -- 48 -- 2 26 -- .347 .414 .457 .871
1947 109 465 396 68 123 15 11 2 166 52 19 9 1 -- 66 -- 2 31 -- .311 .412 .419 .831
1948 134 580 515 75 144 22 8 3 191 48 20 7 5 -- 56 -- 4 36 -- .280 .355 .371 .726
1949 133 605 526 108 159 35 10 10 244 63 21 10 3 -- 72 -- 4 42 -- .302 .390 .464 .854
1950 132 565 480 89 122 21 9 6 179 52 7 8 3 -- 77 -- 4 41 5 .254 .362 .373 .735
1951 116 537 456 81 147 23 18 9 233 58 11 4 5 -- 70 -- 6 34 3 .322 .419 .511 .930
1952 120 546 475 86 130 20 3 5 171 67 13 4 3 -- 64 -- 4 26 3 .274 .365 .360 .725
1953 127 578 486 96 159 25 11 8 230 64 27 9 1 -- 87 -- 4 33 0 .327 .433 .473 .907
1954 120 536 463 81 143 27 10 4 202 35 28 10 1 2 68 -- 2 47 5 .309 .398 .436 .834
1955 126 549 488 47 124 16 4 2 154 32 11 14 4 3 53 1 1 57 5 .254 .327 .316 .642
1956 67 203 179 18 31 2 1 1 38 9 5 0 1 1 19 0 3 31 1 .173 .262 .212 .475
1957 17 23 20 2 5 2 0 0 7 3 0 0 1 0 2 0 0 5 0 .250 .318 .350 .668
通算:15年 1476 6225 5354 881 1527 238 103 55 2136 568 187 99 62 6 764 1 38 457 22 .285 .378 .399 .777
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
  • 阪神(阪神軍)は、1946年に大阪(大阪タイガース)に球団名を変更

タイトル[編集]

  • 首位打者:1回 (1946年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1946年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 1000試合出場:1952年9月11日 ※史上13人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 28 (1942年 - 1943年)
  • 7 (1946年 - 1949年、1951年 - 1959年)
  • 21 (1950年)
  • 30 (1960年 - 1961年)
  • 73 (1972年 - 1974年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

※いずれも現行のタイトル

脚注[編集]

  1. ^ 旧制中学時代に出場した甲子園大会はいずれも「竹村正泰」である。
  2. ^ 『大阪タイガース球団史』、松木謙治郎奥井成一共著、ベースボール・マガジン社1992年)。こうした経緯から、正泰自身は「金田」姓の人物に散見される在日韓国・朝鮮人ではない可能性があるが、当時は朝鮮半島が日本領で、当然朝鮮半島出身者も日系・朝鮮系を問わず「日本人」として扱われ、神職に就く例もあり、日本式の姓名に改名する者もいたため、養子に入った宮司が朝鮮半島系の人物だったかは不明である。また正泰自身も朝鮮半島の生まれではあるが、神職として移住した日系か元来の朝鮮半島系かは不明である。
  3. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、406ページ
  4. ^ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、414ページ
  5. ^ 優勝の決まる試合で「勝ってくれるな」と代表 疑惑の試合の「噂の真相」
  6. ^ ベースボールマガジン8月号、『幻の黄金時代』(2020年7月)、73ページ
  7. ^ 江夏豊によると広島遠征時に起きたできごとであるという(『左腕の誇り 江夏豊自伝』(草思社、2001年、P152 - 153))。
  8. ^ 場所については、1973年11月25日のサンケイスポーツと1973年12月2日の読売新聞は「ロッカールーム」と記し、江夏豊は『左腕の誇り』で「監督室」と述べている。
  9. ^ 読売新聞1973年12月2日、12月13日
  10. ^ 江夏豊は『左腕の誇り 江夏豊自伝』でこのときの経緯を詳細に証言している(同書P153 - 154)。
  11. ^ 4代目ミスター・掛布雅之を成長させた「役割」の力
  12. ^ 当時はプロ・アマ間の断絶があり、元プロ選手のアマチュアへの指導は中学生以下と軟式野球の一部に限られた。

関連項目[編集]