金英柱

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金英柱
김영주
生年月日 (1920-09-21) 1920年9月21日(98歳)
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下 朝鮮平壌万景台
所属政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党

在任期間 1998年9月5日 -
最高人民会議常任委員長
国防委員長
国務委員長
金永南
金正日
金正恩

朝鮮民主主義人民共和国の旗 国家副主席英語版
在任期間 1993年12月11日 - 1998年9月5日
国家主席 金日成

朝鮮民主主義人民共和国の旗 政務院副総理
内閣 金一内閣
朴成哲内閣
在任期間 1974年2月15日 - 1977年12月15日 
国家主席 金日成

在任期間 1960年 - 1974年2月 
朝鮮労働党中央委員会委員長
朝鮮労働党中央委員会総書記
金日成
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金英柱
各種表記
ハングル 김영주
漢字 金英柱
発音: キム・ヨンジュ
日本語読み: きん・えいちゅう
ローマ字 Kim Yŏng'ju
英語表記: Kim Yong-ju
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金 英柱(キム・ヨンジュ、朝鮮語: 김영주1920年9月21日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。北朝鮮を建国した金日成の実弟で、その後継者である金正日の叔父にあたる[1]

日本統治時代には関東軍の通訳をしていたが、解放後は国家副主席や朝鮮労働党政治局員などの要職を務めた。

経歴[編集]

金亨稷康盤石夫妻の三番目の息子として生まれた。金英柱が生まれた1920年、一家は南満州に移住したため、金英柱は満州で育った。

成長した金英柱は、関東軍の通訳として働いた[1]1937年6月4日朝鮮咸鏡南道甲山郡が匪賊に襲撃される事件(普天堡の戦い)が発生した。満州国の朝鮮人治安関係者が調査をした結果、「襲撃事件の首謀者金日成は、諱を金成柱といい、関東軍の通訳として働いている金英柱の実兄である」との証言を得た。金英柱は協力を求められ、祖母の李寶益と共に、日本・満州国側に投降するよう金日成に呼びかけている。

日本が第二次世界大戦に敗れ、朝鮮半島がアメリカ合衆国ソビエト連邦によって分断占領されると、兄の金日成は1948年、ソ連の占領地域に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。翌年、北朝鮮の支配政党として朝鮮労働党が結成され、金英柱も入党した。その後、ソビエト連邦に留学してモスクワ大学ソ連共産党モスクワ党高級学校などで学び、帰国後は党官僚としてのキャリアを積んだ。1966年10月12日の第4期党中央委員会第14回総会で、政治局員候補・書記・党組織指導部長に就任し、最高指導者である金日成の後継者と目されるようになった[2]。なお、金日成の長男の金正日が党組織指導部の責任指導員として配属され、金英柱は組織指導部長として甥の面倒を見ることにもなった[2]。金英柱の金正日に対する指導は厳しく、金正日が野営訓練をサボタージュして映画鑑賞に夢中になったことに激怒し、自分の事務室で殴打したエピソードなどがある。しかし、金正日とは後に金日成の後継者の地位をめぐって争うことになる。

1970年11月13日、金英柱は第5期党中央委員会第1回総会において政治委員会委員に昇格し、党内序列第6位となった。また書記にも再任され、書記局内の序列は総書記である金日成から数えて第4位となった。金英柱の昇格について、日本のアジア経済研究所が発行する『アジア動向年報』1970年度版は、党の後継者として金英柱が実質的に指名されたと評価した。しかし実際には、この頃の金英柱は金正日から後継者競争の挑戦を受けるようになり、しかも形勢は、金日成の歓心を買い、さらには父を支えるパルチザン派の支持を獲得していた金正日へと傾いていったのである[3]

1971年から始まった南北対話において、金英柱は北朝鮮側の責任者を務めた。1972年7月4日には南北共同声明韓国と同時に発表する役割も担った。しかし、以後は朴成哲が南北交渉の実質的な代表の役割を果たし、金英柱は名目上の責任者となっていった。1973年9月に開催された第5期党中央委員会第7回総会以降、金英柱は公式の場に出席することが少なくなる。日本のジャーナリストである平井久志は、金英柱はこの時期、金正日との権力闘争による精神的不調が原因で健康を害していたとする[3]1974年2月15日、金英柱は政務院副総理(副首相)に任命された。しかし金日成の特使としてアラブ諸国を訪問し、また外国代表団の歓迎行事などに出席はするものの、政務院の会議や党の会議での公式演説や報告を行うことはなく、金英柱は実質的な権限から遠ざけられていった。副総理の職は1977年12月まで務めたものの、1974年2月の第5期党中央委員会第8回総会で金正日が金日成の後継者に決定されると、翌年7月3日に南北共同声明発表三周年声明を出したのを最後に金英柱は失脚し、公式の場から姿を消した。失脚後は慈江道で隠遁生活を送った。

1993年7月26日、金英柱は祖国解放戦争戦勝記念塔の完工式に出席し、18年ぶりに公式の場に復活した。12月8日、第6期党中央委員会第21回総会において党政治局員に任命され、続く12月11日、第9期最高人民会議第6回会議において国家副主席に選出された。翌年、国家主席の金日成が死去して主席が空位となり、1998年の憲法改正で国家主席制が廃止されると、金英柱は最高人民会議常任委員会名誉副委員長となった。2003年の第11期最高人民会議第1回会議でも代議員として選出され、最高人民会議常任委員会名誉副委員長に再任された。

しかし、同年9月の建国55周年記念閲兵式典で主席壇(人民大学習堂にある北朝鮮首脳部が閲兵をするバルコニー)に登場した頃から、高齢のためか動静が伝えられる機会が激減している。2007年7月30日の道、市、郡人民会議代議員選挙で投票したことを朝鮮中央テレビが伝えて以来、動静に関する公式報道が途絶えていたが、2009年3月8日、最高人民会議代議員選挙で投票したことを朝鮮中央テレビが伝えた。2010年9月28日の第3回党代表者会および中央委員会総会で党中央委員・政治局員を正式に退いた。

2011年7月に国営メディアで動静が伝えられ、同年12月には甥である金正日の遺体を弔問する姿が朝鮮中央テレビで放送された。その後、再び動静報道が途絶えたが、2014年3月10日平壌放送が前日に行われた最高人民会議第13期代議員選挙で投票したと報道、健在が確認された。また、この選挙で最高人民会議代議員に再選された。

脚注[編集]

  1. ^ a b “【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典”. 中央日報. (2009年11月6日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122425&servcode=100&sectcode=100 2017年1月16日閲覧。 
  2. ^ a b 平井(2010年)、22ページ。
  3. ^ a b 平井(2010年)、28 - 29ページ。

参考文献[編集]

  • 平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮社〈新潮選書〉、2010年)
 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党
先代:
朝鮮労働党中央委員会
組織指導部部長
1960年 - 1974年
次代:
金正日