鈴弁殺し事件

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鈴弁殺し事件(すずべんごろしじけん)は、1919年大正8年)6月新潟県で発覚したバラバラ殺人事件日本初のバラバラ殺人事件とされる。なお、事件に含まれる「鈴弁」は被害者の通称だが、本項では被害者・被疑者名は伏せて符号で表記する。

発端[編集]

被害者・鈴弁ことAは外米輸入商と高利貸しを兼ねており、米の買い占めで財をなしたが、更なる利益を求めて農商務省外米管理部の技師であるBに接触。Bからリークされた情報を基に1918年米騒動では巨額の利益を得る一方、Bが渡欧する際には次男を同行させてあらゆる利便を供与した。しかしBはこれに飽き足らず、将来の立身出世の軍資金づくりを目論んで米穀投機に手を出して失敗、巨額の借金を抱えてしまっていた[1]

ちょうどこの時期、米騒動直前に公布された外米管理令によって、外米取扱い商の許可を受けなければ外米輸入ができないことになったため、AはBに対し、この許可が降りるよう便宜を取り計らうよう要請していた。Bはこれに乗じて援助を引き出すべく、後輩Cを主管局長であると騙してAに面会させ、リベートとして5万円を受け取ることに成功した。しかしまもなく、ニセ主管局長のからくりが露呈してAは上記5万円の即時返還を迫ったものの、既にBはこれを借金の穴埋めなどでほとんど使ってしまっていた。最初のうちはAを無視する態度でいたが、業を煮やしたAが関係を暴露する旨を言い出すに至り、追い詰められて殺害を決意した[1]

殺害・遺棄[編集]

大正8年5月31日の夜、Bは家族を外出させた上で自宅にAを招き、酒席でもてなした隙をついて共犯の後輩Cと共にAをバットで殴打した上で絞殺、一旦Aの遺体を物置に隠し、翌1日の夜に再び家族を外出させてからAの遺体を切断、2つのトランクに分けた。更に従兄のDを呼び出して遺体の投棄を頼んだ。

6月2日にCとDは鉄道でBの故郷に近い長岡市に向かい、船を出させて信濃川に遺体の入ったトランクを石を結びつけた上で投棄した。 また、Cはまず3日に長岡からBの異母兄宛に電信を打ち(この際異母兄は事情を知らされておらず、人違いだと思っていた)、さらに5日に青森からAを装って電信を横浜にあるAの自宅宛に打つ隠蔽工作を行った。

発覚[編集]

投棄から4日経った6月6日の午前9時頃、三島郡大河津村(現・長岡市)で牛乳配達人が信濃川の岸辺に浮かんだトランクを発見したことで、事件が発覚した。新潟県警察部の捜査でまもなく長岡駅到着以後の足取りが判明、Bの異母兄宛に電信を打った記録からBの関与が疑われ、警視庁にBの取り押さえを依頼した[1]

この電報が到着する前の6月8日午前11時頃、BはCを同道して、同窓であった正力松太郎警視庁監察官を訪ね、犯人として引き渡すことで、身代わり工作を図った。しかし供述内容は、妙に詳細な部分と曖昧な部分が混在しており、警視庁ではB自身の追及を検討し始めていたところに新潟県警察部からの電報が届いたことから、直ちにBを連行して取り調べに入った。当初は農商務省高等官で正力監察官の同窓生という地位を誇って傲然と応対していたが、Cの供述内容の矛盾や新潟県警察部の捜査内容から追及されて返答に窮し、ついに自供に至った[1]

裁判・処罰[編集]

殺害犯側は「米価をつりあげた悪人を、義憤にかられて殺した」と証言したため、被害者のAは死後に世間から「悪人」として認知されるようになった。代々の地主でもあり富豪であったAの家はその後長らく世間から責められることとなった。なおAの孫娘にあたるのが随筆家として有名な武田百合子であるが、実際にはAの娘の婿養子が、妻の死後に再婚してもうけた娘であるため、Aとの血縁関係はない。

BとCは殺人および死体遺棄、Dは死体遺棄で起訴され、12月2日、Bに死刑、Cに懲役15年、Dに懲役1年6ヶ月の判決が言い渡された。いずれも控訴し、1920年5月28日、BとCは第一審と同様、Dは懲役1年執行猶予3年の判決を受けた。Bは更に上告したが却下され、1921年(大正10年)4月2日、死刑が執行された[1]

出典[編集]

参考文献[編集]