鉄原郡
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鉄原郡(チョルォンぐん、てつげんぐん)は、朝鮮半島中部の江原道にある郡である。軍事境界線を挟んで、韓国と北朝鮮の双方に同名の行政区域がある。
地理[編集]
江原道の中西部に存在し、京畿道に接する。江原道では少ない平地である鉄原平野に位置する。この平野は周囲を高い山脈に囲まれた溶岩台地であり、平坦で水も豊富なことから穀倉地帯として知られていた。
朝鮮半島を横断する軍事境界線の中央部にあたる。人間による開発の手が及ぶことがなくなった軍事境界線付近は、渡り鳥の飛来地としても有名である。
気候[編集]
北朝鮮国境に近く、韓国で最も寒さの厳しい地域であり、厳冬期には-20度を下回ることも少なくない。
- 最高気温極値38.4℃(2018年8月1日)
- 最低気温極値-29.2℃(2001年1月16日)
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
平均気温(C) | -5.3 | -2.6 | 3.4 | 10.4 | 16.0 | 20.7 | 23.7 | 24.0 | 18.5 | 11.2 | 4.2 | -2.3 | 10.2 |
最高気温(C) | 0.8 | 3.8 | 9.8 | 17.6 | 22.3 | 26.1 | 28.0 | 28.9 | 24.8 | 18.6 | 18.6 | 3.4 | 16.2 |
最低気温(C) | -10.9 | -8.6 | -2.5 | 3.3 | 10.1 | 15.9 | 20.2 | 20.0 | 13.3 | 4.9 | -1.2 | -7.6 | 4.7 |
降水量(mm) | 21.8 | 25.1 | 41.9 | 53.4 | 108.9 | 134.0 | 376.6 | 304.8 | 143.8 | 45.9 | 56.2 | 23.3 | 1335.7 |
歴史[編集]
古代には高句麗に属した領域で、鉄円または毛乙冬非と呼ばれた。統一新羅時代に景徳王によって鉄城に改称された。新羅末の動乱期には弓裔が鉄円(鉄原)に首都を置いた。高麗が建国されると鉄原と改められ、次いで東州と改められた。朝鮮王朝時代以来、鉄原には都護府が置かれ、付近の行政の中心となり、江原道に属した。
植民地時代は郡内を京元線が貫き、鉄原駅からは金剛山電気鉄道が分岐して金剛山観光の拠点となっていた。鉄原邑には京城地方法院鉄原支庁・鉄原中学・鉄原高女・鐘紡の工場があり、江原道北部地域の交通・行政・農商工業の中心であった。
日本が敗戦を迎えると、38度線以北であったこの地にはソ連軍が入り、全域が北側の統治体制の下に置かれた。朝鮮戦争時、特に双方が休戦交渉に向けて有利な状況を確保しようとした戦争末期において、鉄原・金化・平康を結ぶ地域は「鉄の三角地帯」と呼ばれ、寸土を争う激戦地となった。
鉄原のかつての中心部は、現在の韓国側の領域にあるが、激戦によって廃墟と化した。南北ともに、旧中心部から離れた場所に「鉄原」の名を持つ町を再建している。韓国側では鉄原駅跡に旧鉄原を描いた看板が立てられ、往時がしのばれている。
年表[編集]

- 新羅時代 - 鉄城と称する。
- 新羅末 - 弓裔が都を置く。
- 918年 - 鉄原に改称。
- 1018年 - 東州に改名。
- 1254年 - 州から県に降格。
- 1310年 - 鉄原府に復す。
- 1412年 - 都護府とする。
- 1444年 - 京畿道から江原道に移される。
- 1895年5月26日 - 春川府鉄原郡となる(二十三府制)。
- 1896年8月4日 - 江原道鉄原郡となる。
- 1914年3月1日 - 京畿道朔寧郡の一部(乃文面・寅目面・馬場面)が鉄原郡に編入。鉄原郡に以下の面が成立(10面)。
- 東松面・西辺面・葛末面・於雲洞面・北面・新西面・畝長面・乃文面・寅目面・馬場面
- 1917年3月1日 (10面)
- 西辺面が鉄原面に改称。
- 於雲洞面が於雲面に改称。
- 1931年4月1日 - 鉄原面が鉄原邑に昇格(1邑9面)。
- 1945年8月15日 - ソ連軍管理下に置かれる。
行政[編集]
1931年の鉄原邑昇格以降、以下の邑面が置かれていた。
- 鉄原邑
- 東松面・葛末面・於雲面・北面・乃文面・馬場面・寅目面・畝長面・新西面
韓国政府統治範囲[編集]
![]() 孤石亭渓谷・漢灘江と孤石岩 | |
位置 | |
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![]() | |
各種表記 | |
ハングル: | 철원군 |
漢字: | 鐵原郡 |
日本語読み仮名: | てつげんぐん |
片仮名転写: | チョルォングン |
ローマ字転写 (RR): | Cheorwon-gun |
統計 | |
面積: | 899 km2 |
総人口: | 45,433(2016年[2]) 人 |
行政 | |
国: |
![]() |
上位自治体: | 江原道 (南) |
下位行政区画: | 4邑7面 |
行政区域分類コード: | ? |
鉄原郡の木: | チョウセンマツ |
鉄原郡の花: | クロフネツツジ |
鉄原郡の鳥: | ツル |
自治体公式サイト: | 鉄原郡 |
歴史[編集]
旧鉄原邑が壊滅したあと、葛末面(現在の葛末邑)に新たに作られた中心市街は、新鉄原と呼ばれている。
現郡域の西側半分が旧鉄原郡で、東側は旧金化郡の南部にあたる。郡域が東西に伸びたため、軍事境界線の全長の約28%が郡を通過することとなった。
- 1953年7月27日 - 朝鮮戦争の休戦に伴い、鉄原邑・葛末面・東松面・新西面の全域と於雲面・畝長面の大部分・寅目面・北面・乃文面のそれぞれ一部を韓国が収復。
- 1954年10月21日 - 収復地区臨時行政措置法により、鉄原郡に対する施政権が回復。下記の1邑3面で再出発。
- 鉄原邑(畝長面を編入)・葛末面・東松面(於雲面を編入)・新西面(寅目面の収復地区を編入)
- その他、非武装地帯内の民間人非居住地区として北面の楡井里・洪元里および乃文面篤倹里を設置。
- 1963年1月1日 - 行政区画の見直しを実施(2邑9面)。
- 1972年12月28日 - 軍事境界線と接する部分において区画の見直しを実施(2邑9面)。
- 北面の楡井里・洪元里と乃文面篤倹里が鉄原邑に編入。
- 平康郡南面亭淵里が葛末面に編入。
- 1973年7月1日 - 西面の一部が金化邑に編入(2邑9面)。
- 1979年5月1日 - 葛末面が葛末邑に昇格(3邑8面)。
- 1980年12月1日 - 東松面が東松邑に昇格(4邑7面)。
行政[編集]
4邑7面からなる。郡庁は葛末邑新鉄原里にある。郡守はチョン・ホジョ(정호조)
邑・面 | 法定里 |
---|---|
鉄原邑 | 官田里、中里、月下里、花地里、栗梨里、四要里、外村里、内浦里、洪元里、楡井里、山明里、加丹里、中細里、大馬里、篤検里 |
金化邑 | 鶴沙里、邑内里、生昌里、岩井里、雲長里、龍楊里、甘鳳里、清陽里、道昌里 |
葛末邑 | 新鉄原里、芝浦里、江浦里、軍炭里、文恵里、内垈里、地境里、土城里、上糸里、東幕里、亭淵里 |
東松邑 | 二坪里、五徳里、長興里、梧地里、上路里、大位里、観雨里、陽地里、二吉里、下葛里、中江里、江山里 |
西面 | 自等里、瓦水里 |
近北面 | 楡谷里、金谷里、柏徳里、栗木里 |
近東面 | 光三里、芳通里 |
近南面 | 馬峴里、沙谷里、陽地里、六丹里、蚕谷里、豊巌里 |
遠東面 | 登大里、松室里、龍淵里、細峴里 |
遠南面 | 開野里、慶祥里、竹垈里、白楊里、南屯里、月峰里、楓洞里、住波里、九龍里、芦洞里、榛峴里 |
任南面 | 達田里、科湖里、佐佩里、水洞里 |
- 西面・近南面・近北面以外の4面には定住している人々はいない。
産業[編集]
農業地帯で、鉄原五台米とよばれるブランド米の生産で知られる。
郡庁公式サイトによれば、人口は1995年に約65,000人とピークを迎えたが、離農によって減少している。
観光[編集]
戦跡をめぐり国防意識を高める「安保観光」が行われている。
- 鉄の三角展望台
- 月井里駅
- 旧労働党庁舎
- 南侵第二トンネル
- 孤石亭
- セムトン渡り鳥飛来地
- 三釜淵瀑布
- 承日橋(昇日橋)
交通[編集]
鉄道[編集]
外部リンク[編集]
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北朝鮮政府統治範囲[編集]
位置 | |
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![]() | |
各種表記 | |
チョソングル: | 철원군 |
漢字: | 鐵原郡 |
日本語読み仮名: | てつげんぐん |
片仮名転写: | チョルォングン |
ローマ字転写 (MR): | Ch'ŏrwŏn-gun |
統計(2008年) | |
面積: | 457 km2 |
総人口: | 62,418[3] 人 |
人口密度: | 136.5 人/km2 |
行政 | |
国: |
![]() |
北朝鮮側の「鉄原邑」は韓国の鉄原邑(朝鮮戦争前の郡庁所在地)から大きく離れた場所にあり、新羅時代から安峡と呼ばれた地であった。李氏朝鮮時代は一時安朔と呼ばれた。1952年の行政区画再編で周辺地域を編入した関係で、郡域は朝鮮戦争前に比べて西側に移動している。おおむね1914年以前の安峡・朔寧(西面・南面を除く)に該当し、元からの鉄原郡だった部分は北面の大部分と於雲面の一部のみである。
行政区画[編集]
1邑・36里を管轄する。
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歴史[編集]
この節の出典[4]
- 1945年8月15日 - 鉄原郡がソ連軍管理下に置かれる。(1邑9面)
- 1946年12月 - 京畿道永平郡(抱川郡)永中面・永北面・二東面・一東面を鉄原郡に編入。(1邑12面)
- 一東面が二東面に編入。
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、江原道鉄原郡馬場面の全域と寅目面の半分、乃文面・北面のそれぞれ大部分と於雲面・畝長面の一部、伊川郡東面・安峡面および西面の一部、漣川郡朔寧面・西南面、平康郡西面の一部、黄海道金川郡兎山面の一部地域をもって、江原道鉄原郡を設置。人民委員会は旧馬場面に置かれていた。鉄原郡に以下の邑・里が成立。(1邑40里)
- 馬場邑・大田里・立石里・密巌里・往避里・月巌里・邑内里・上下里・楮灘里・乃文里・斑石里・梧桐里・馬放里・上馬山里・浮鴨里・松峴里・葛峴里・佳承里・回山里・三四里・外鶴里・龍鶴里・楡井里・洑幕里・中江里・江山里・流大浦里・文巌里・定洞里・下食店里・余尺里・朔寧里・検寺里・篤倹里・道密里・席屯里・獐鶴里・率賢里・冷井里・積洞里・積山里[5]
- 1953年7月 - 停戦協定の発効により、京畿道漣川郡西南面の一部を編入。編入された部分は以下の里に当たる。(1邑43里)
- 伍炭里・貴存里・佳川里(実際、公式ではないが、西南面古荘里、旺澄面高桟上里・高旺里・基谷里(旧麻田郡江新面)各一部を編入)
- 1954年 (1邑43里)
- 上下里・往避里の各一部が立石里に編入。
- 馬場邑の一部が往避里に編入。
- 1956年 - 余尺里が朔寧里に編入。(1邑42里)
- 1961年3月 - 人民委員会を旧安峡面に移転し、その地を鉄原邑とする。旧西南面の部分(伍炭里を除く)を開城直轄市長豊郡に編入。(1邑36里)
- 馬場邑が馬場里に降格。
- 邑内里および上下里の一部をもって鉄原邑に改称・昇格。
- 開城直轄市長豊郡に編入された旧西南面の里は席屯里・率賢里・冷井里・佳川里・貴存里・獐鶴里。
- 1991年 - 往避里が新進里に改称。(1邑36里)
- 1996年 - 朔寧里が白鷺山里に改称。(1邑36里)
外部リンク[編集]
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脚注[編集]
- ^ 大韓民国気象庁
- ^ “Statistical Datebase/Population, Households and Housing Units”. 統計庁 (2017年8月31日). 2018年2月7日閲覧。
- ^ “North Korea: administrative units, extended”. geohive.com. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月7日閲覧。
- ^ 강원도 철원군 역사
- ^
- 馬場面長浦里が馬場邑に改称。
- 馬場面南院里が往避里に編入。
- 乃文面倉洞里が乃文里に編入。
- 伊川郡安峡面挙城里が邑内里に編入。
- 伊川郡安峡面上水回里・下水回里を上下里に改編。
- 伊川郡安峡面楮田里・退灘里を楮灘里に改編。
- 寅目面内福里が松峴里に編入。
- 寅目面徳山里・薪峴里・石峴里が葛峴里に編入。
- 寅目面佳塔里・承陽里を佳承里に改編。(松峴里・内福里・佳塔里・石峴里は光復後新設)
- 北面回山里の一部が三四里に改称。(しかし、地図上推定、畝長面山明里が三四里に編入、加丹里が篤倹里に編入)
- 平康郡西面定山里の一部が月岩里に編入。
- 金川郡兎山面内里・外里が浮鴨里に編入。
- 漣川郡朔寧面古馬里が上馬山里に編入。
- 漣川郡朔寧面積洞山里・陶淵里・大寺里を積洞里に改編。
- 漣川郡朔寧面漁積山里・笛音里・辰谷里を積山里に改編。(1邑40里)