銀あけみ

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銀 あけみ(しろがね - 、本名・井村 洋子[1]1944年4月30日[2] - 1993年5月7日)は元宝塚歌劇団娘役(元雪組組長)。日本舞踊藤間流・藤間勘緒[3]神奈川県鎌倉市出身。愛称は「イムコ」「ヨーコちゃん」「イム長」。

略歴[編集]

エピソード[編集]

  • 父親は海軍軍人[6]。銀の誕生から19日後、搭乗していた潜水艦が南太平洋ソロモン海域で爆撃を受け戦死。銀と父親は一度も対面したことがない[2][6]。父親の死後、母親は美容師の資格を取り、銀を育てた[2]
  • 幼少期は東京築地の歌舞伎座近くで育つ。宝塚歌劇ファンの母親は、東京公演のたびに銀を連れて観劇した。銀はこの頃から「タカラヅカのおねえさんになる」と入団を志す発言をしていた。[2]
  • 幼少期から日本舞踊や長唄を習っていた。中学校入学後は自分で探し出した教室でバレエと声楽のレッスンを受けた。[2]
  • 小学校から無遅刻無欠席。責任感が強く、宝塚音楽学校の同期生からも一目置かれる存在であった。[2]
  • 宝塚歌劇団入団後は、伸びのある歌声と安定した歌唱で早くから注目を集めた[1]。舞踊でも評価を受けており、藤間流の名取として藤間勘緒を名乗っていたほか、ダンスでは振付家パディ・ストーンによるオーディションに合格して第2回ヨーロッパ公演に参加[3]。公演参加者の中では最下級生[7]であった。
  • 銀は生前、宝塚おとめ[8]で「好きだった役」として『メナムに赤い花が散る』の田鶴役を挙げていた。この役は作・演出の植田紳爾が「イムコ(銀)の持つ得難い人柄と、豊饒な歌唱力を何とか生かしたい」という思いから銀に当て書きした役である[9]。この役を演じた銀について植田は「人の心を素直に歌いあげるのは、簡単なようでそうではない。気持ちさえ込めれば情感が出ると思うのはまちがいで、彼女の歌はそのいちばんむずかしいところに到達していた」と語っている[10]
  • 小林公平は銀について「たいへん美声の持ち主」「和・洋何れにも貴重な存在であった」と語っている[3]
  • 植田は銀について「気配りや心遣いがいつも的確」「人間的な優しさや暖かさは同期生の中でも群を抜いていた」と語っている[9]
  • 雪組組長を務めていた時、研究科3年生であった北原遥子が(カメラテストのみときいて出かけたテレビドラマの撮影で、結果的に顔が映る形での「出演」となり、その責任をとる形で)退団させられた際には「北原を正式退団者にしてくれないのなら、自分たちも辞める」と、歌劇団に対して猛抗議したという。その後、北原は正式退団者として扱われ、『宝塚歌劇団80年史』には「昭和59年退団」と記されているという[11]

宝塚歌劇団時代の主な舞台[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 「銀あけみ、逝去」 『歌劇』、通算813号、1993年6月1日発行、54頁
  2. ^ a b c d e f g h 「銀あけみ(死を生きる・第一部 3つの物語:11)/兵庫」『朝日新聞』、1993年12月4日発行、朝刊、兵庫面 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ a b c d 小林公平 「花の道より」 『歌劇』、通算813号、1993年6月1日発行、50頁
  4. ^ a b c d 監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』、阪急コミュニケーションズ2014年4月1日、64-65頁。ISBN 9784484146010
  5. ^ 「銀あけみ(死を生きる・第一部 3つの物語:8)/兵庫」『朝日新聞』、1993年12月1日発行、朝刊、兵庫面 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ a b 小林公平 「花の道より」 『歌劇』、通算813号、1993年6月1日発行、51頁
  7. ^ 在団年数が最も短い団員を指す。詳細は宝塚歌劇団#劇団員と宝塚音楽学校を参照。
  8. ^ 宝塚歌劇団全生徒のプロフィールを掲載した書籍。毎年新版が発行される。基本的なプロフィールの他に「好きだった役」や「演じてみたい役」という項目があり、これらは団員自身が選んだものが掲載される。
  9. ^ a b 植田紳爾「寂」 『歌劇』、通算813号、1993年6月1日発行、55頁
  10. ^ 「銀あけみ(死を生きる・第一部 3つの物語:13)/兵庫」『朝日新聞』、1993年12月8日発行、朝刊、兵庫面 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  11. ^ へそだんご「北原遥子さん、御巣鷹山に散った悲劇のタカラジェンヌの思い出」”. ウェブリブログ (2009年2月5日). 2013年4月20日閲覧。