長ギ郡

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本来の表記は「長鬐郡」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

長鬐郡(チャンギぐん、ハングル:장기군)は慶尚北道浦項市南区および慶州市のそれぞれの一部にあった郡。

歴史[編集]

  • 三国時代新羅の只沓県の一部だった。[1]
  • 景徳王16年(757年)- 鬐立県に改名し、後に義昌郡の一部となった。 [1]
  • 高麗時代の太祖13年(930年)- 鬐立県は長鬐県に改名して顕宗9年(1018年)には慶州府に内属した。 [1]
  • 李氏朝鮮時代、長鬐県には従六品に相当する県監が置かれ、慶州府の領県だった。[1]
  • 1765年時点 - 長鬐県は邑内面、西面、北面の3面を管轄。(1789年には県内面35坊、西面15坊、北面36坊の3面86坊。1832年には県内面13里、西面10里、北面14里の3面37里。)[1]
  • 1895年 - 二十三府制の施行により、長鬐県は長鬐郡に改編されて東莱府に属し、3面49里を管轄。 [2]
  • 1896年 - 十三道制の施行により、長鬐郡は慶尚北道の管轄となる。[3]
  • 1906年 - 慶州郡東海面を編入し内南面(後の陽北面)と陽南面に分けられ、長鬐郡北面も内北面と外北面に分けられ、あわせて6面となる。
  • 日本統治時代に入った1912年 - 長鬐郡は6面135里(うち県内面:30、内南面:33、陽南面:15、西面:26、内北面17、外北面:14)を管轄し、郡庁所在地は県内面東部里にあった。
  • 1914年3月1日 - 内南面・陽南面(あわせて旧・東海面)は陽北面・陽南面として慶州郡に返還。残存区域の県内面・内北面・外北面・西面の4面が滄州面(内北面と外北面を16洞)・長鬐面(県内面を12洞)・峯山面(西面を11洞) の3面に廃統合され、長鬐郡は他郡と統合して迎日郡となり、長鬐郡は廃止された。[4]

関係項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 연혁 :: 장기면”. 浦項市南区長鬐面 (2014年5月21日). 2014年5月26日閲覧。
  2. ^ 勅令第98号・地方制度改正件(1895年陰暦5月26日)
  3. ^ 勅令第36号・地方制度官制改正件(1896年8月4日)
  4. ^ 朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)