長崎市立磨屋小学校

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長崎市立磨屋小学校
過去の名称 啓蒙学校
旧川小学校
榎津小学校
中等榎津小学校
中等鶴鳴小学校
尋常鶴鳴小学校
長崎尋常女児小学校
磨屋町女児尋常小学校
磨屋尋常小学校
磨屋国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 長崎市
設立年月日 1873年
閉校年月日 1997年(平成9年)3月31日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 850-0873
長崎県長崎市諏訪町7番13号
外部リンク 長崎市立諏訪小学校公式サイト
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長崎市立磨屋小学校(ながさきしりつ とぎやしょうがっこう, Nagasaki City Togiya Elementary School)は、かつて長崎県長崎市諏訪町にあった公立小学校1997年平成9年)に、統廃合で閉校した。

概要[編集]

歴史
長崎市立勝山小学校とともに、1873年明治6年)に長崎県内で初めて設置された公立小学校である。
創立124周年目の1997年平成9年)に長崎市立勝山小学校・長崎市立新興善小学校との統合[1]で閉校し、跡地には長崎市立諏訪小学校が開校した。
校訓
「質実剛健」
校章
校名の「磨」の文字を図案化したものである。
校歌
作詞は島内八郎、作曲は木野普見雄による。3番まであり、各番に校名の「磨屋小学校」が登場する。
校区
中学校区は長崎市立桜馬場中学校であった。

沿革[編集]

  • 1873年(明治6年)
    • 3月11日 - 「第二番小学・啓蒙学校」が磨屋町(現 古川町・諏訪町)に創立。
    • 8月〜10月の間 - 第二番小学・啓蒙学校が開校。(生徒数44名、教員8名)
  • 1874年(明治7年)1月 - 啓蒙学校が「旧川小学校」に改称。私塾に4分校を置く。
  • 1875年(明治8年) - 榎津町(現 万屋町・鍛冶屋町)に移転し、「榎津小学校」と改称。
  • 1882年(明治15年)12月11日 - 新教育令の実施により、「中等榎津小学校」となる。小学校の修学年限を初等科3年・中学科3年・高等科2年の8年とした。
  • 1886年(明治19年)
    • 2月 - 磨屋町に新築・移転し、「中等鶴鳴小学校」と改称。
    • 6月26日 - 小学校令に基づき、「尋常鶴鳴小学校」に改称。
  • 1887年(明治20年)12月 - 夜学校を併設。
  • 1893年(明治26年)4月1日 - 長崎市内の小学校の統廃合が行われ、「長崎尋常女児小学校」に改称。
  • 1900年(明治33年)4月 - 分教場を新橋町に移す(同年6月に「新橋町尋常女児小学校」として独立)。
  • 1901年(明治34年)3月11日 - 「磨屋町女児尋常小学校」に改称。
  • 1908年(明治41年)4月2日 - 「磨屋尋常小学校」に改称。男女共学を実施。小学校令一部改正により、義務教育期間が尋常科4年から尋常科6年に延長。
  • 1922年大正11年)3月 - 長崎市小学校創立50周年記念式典を挙行。勝山高等小学校等を会場に記念事業が行われる。
  • 1923年(大正12年)4月 - 尋常小学校の授業料が全廃される。
  • 1941年昭和16年)4月1日 - 国民学校令により、「磨屋国民学校」と改称。
  • 1945年(昭和20年)
    • 8月9日 - 長崎市へ原爆が投下される。
    • 8月11日 - 救護所[2]が設けられ、多数の負傷者が殺到し、混乱を極める。最終的には新興善国民学校(新興善小学校)に救護所が統合される。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により、「長崎市立磨屋小学校」(最終名)となる。
  • 1973年(昭和48年)3月11日 - 創立100周年記念式典を挙行。
  • 1997年平成9年)3月31日 - 統廃合により閉校。124年の歴史に幕を下ろす。

跡地[編集]

  • 1997年(平成9年)4月1日〜2000年(平成12年)3月31日 - 旧校舎を解体し、長崎市立諏訪小学校の新校舎を建設。(この間、旧新興善小学校の校舎を使用。)
  • 2000年(平成12年)4月1日〜 新校舎が完成し、長崎市立諏訪小学校が使用。現在に至る。

脚注[編集]

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  1. ^ 現在、勝山小学校跡地には長崎市立桜町小学校が、新興善小学校跡地には長崎市立図書館がある。
  2. ^ 他にも勝山、新興善、伊良林稲佐の国民学校、長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)、大光寺、悟真寺などに救護所が設けられた。

参考文献[編集]

関連項目[編集]