関東享禄の内乱

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関東享禄の内乱
戦争:関東享禄の内乱
年月日享禄2年(1529年)‐享禄4年(1531年
場所:関東地方
結果足利晴氏古河公方上杉憲政関東管領の地位を確立
交戦勢力
足利高基

上杉憲寛

足利晴氏

上杉憲政

関東享禄の内乱(かんとうきょうろくのないらん、享禄2年(1529年)‐享禄4年(1531年)は、古河公方家と関東管領山内上杉家の両家中にて、ほぼ同時に発生・終結した内訌である。相互に関連していると推定されるが、史料が少なく不明確な部分も多い[1]

背景[編集]

室町時代戦国時代は、幕府将軍家をはじめとする多くの武家で、家督争いや嫡流・庶流間の勢力争いが続いた。享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱以後、関東武家の中心となった古河公方家、関東管領上杉家も例外ではなく、古河公方家では、第2代・足利政氏から第3代・高基に継承されるときに両者は争い、同時に関東管領家でも、政氏側の上杉顕実と高基側の上杉憲房が家督を巡って争ったため、多くの武家を巻き込んで「永正の乱」と呼ばれた大規模な内訌になった。(詳細は「古河公方」参照)

そして、第3代古河公方・高基から第4代・晴氏に継承されるときにも、永正の乱よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じたと考えられている[1]

経過[編集]

古河公方家[編集]

  • 享禄元年(1528年)12月27日 古河公方家嫡男・足利晴氏が元服した[2]
  • 享禄2年(1529年) 安房里見義豊が古河公方足利家当主として、足利晴氏を挙げた[3]。古河公方・足利高基と晴氏の抗争を示唆する[1]
  • 享禄2~4年 5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した[4]
  • 享禄4年(1531年)6月1日 足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討(足利政氏から足利基頼宛の書状[5]より)。抗争の終結が近いことを示唆するとともに、本書状から宇都宮興綱と芳賀次郎(高綱?)が晴氏側であったこと、政氏が晴氏側であったこと、武蔵忍城成田親泰足利基頼は政氏側であったと考えられる[1][6][7]
  • 享禄4年(1531年)6月6日 晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、足利政氏の治療を指示[8]。この時期に晴氏は古河公方の地位を確立していたことを示唆する[1]
  • 享禄4年(1531年)6月9日 高基が小山小四郎に対して隠居を知らせ、今後も同様の奉公を求めた[9]。抗争の終結を示す[1]

関東管領・山内上杉家[編集]

  • 享禄2年(1529年)正月二十四日条 山内上杉家の家臣・白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される(『続本朝通鑑』)。山内上杉家内部に対立があることを示す[1][10]
  • 享禄2年(1529年)八月十四日条 山内上杉氏当主・上杉憲寛上野国碓氷郡安中城安中氏討伐を開始。同盟関係にあった扇谷上杉氏上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。(『続本朝通鑑』)
  • 享禄2年(1529年)九月二十二日条 西氏と小幡氏上杉憲政を擁立、上杉憲寛に対して謀反を起こした。憲寛は長野氏を随行させながら、安中城から程田(高崎市)に後退。(『続本朝通鑑』) 憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる[1]
  • 享禄3年(1530年)5月 「左衛門尉」が上野国多胡郡・仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた[11]。山内上杉氏領国内で戦乱があったことを示す[1]
  • 享禄3年(1530年)5月21日 上杉憲寛が、高田憲頼の注進により、被官・守山与五郎の戦勲に対して感状を発給[12]。高田憲頼が憲寛側だったこと、上野国甘楽郡・高田城(富岡市)周辺で合戦があったことを示す[1]
  • 享禄3年(1530年)10月25日 上杉憲寛が、用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官・三富平六に与える[13]。用土氏は憲寛に敵対していたことを示す[1]
  • 享禄4年(1531年)9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して、晴直と名を改めた[14]。抗争が終結し、上杉憲政が勝利したことを示す[1]

結果[編集]

古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。また、山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲した[1]

扇谷上杉氏もこの乱の影響を受ける。享禄2年(1528年)末には、後北条氏の抗争が大規模化しているが、内乱中の山内上杉氏古河公方は頼れなかったため、扇谷上杉朝興甲斐武田信虎と同盟を結んだ[1]

この時期の乱を「永正の乱」と比較したとき、古河公方家の内乱と山内上杉家の内乱は互いの連携が弱く、周辺の武家を広く巻き込むことはなかった。個々の領内での権力争いとしての側面が強く見られており、古河公方家と山内上杉家ともに「享禄期には、その存立は領域権力としての性格を本質にしつつあった」と評価される[1]

参戦武将[編集]

史料が少ないため、一部は推定で補う必要があるが、下記のように考えられている[1]

敗者側[編集]

勝者側[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 黒田基樹 「関東享禄の内乱」 『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』 岩田書院、2012年
  2. ^ 「野田家文書」『古河市史 資料中世編』No.739
  3. ^ 「鶴谷八幡宮棟札銘写」(「椙山本金集」)『戦国遺文 房総編』No.624
  4. ^ 「足利高基書状写」(「小山氏文書」)『戦国遺文 古河公方編』No.577 あるいは『古河市史 資料中世編』No.676
  5. ^ 「足利道長書状写」(「豊前氏古文書抄」)『戦国遺文 古河公方編』No.434
  6. ^ a b 荒川(1997年)16-17頁 では、宇都宮興綱は高基側、芳賀が晴氏側としており、興綱については黒田と逆の推定結果
  7. ^ 中根正人(「古河公方御連枝足利基頼の動向」 『中世東国の政治と経済 中世東国論 6』 岩田書院、2016年)は、足利基頼は中立もしくは高基側であったこと、政氏の死と高基の隠居を機に小弓の義明側に転じた(某年8月に上総井田氏に対して義明方の千葉勝胤と共に協力するように求める基頼発給文書がある(「井田文書」)が、勝胤は享禄5年5月には死去しているために享禄4年以外の発給は不可能)としており、基頼については黒田と逆の推定結果。
  8. ^ 「足利晴氏書状写」(「秋田藩家蔵文書五」)『戦国遺文 古河公方編』No.725 あるいは『古河市史 資料中世編』No.741
  9. ^ 「足利高基書状」(「小山文書」)『戦国遺文 古河公方編』No.583
  10. ^ 黒田基樹 「長尾景春論」 『長尾景春』 戎光祥出版、2010年
  11. ^ 「某左衛門尉奉書禁制写」(「仁叟寺文書」)
  12. ^ 「上杉憲寛感状」(「森山文書」)
  13. ^ 「上杉憲寛感状」(「志賀槙太郎氏所蔵文書」)
  14. ^ 「喜連川判鑑」(『古河市史 資料中世編』 713頁、No.1541)

参考文献[編集]

  • 荒川善夫 『戦国期北関東の地域権力』 岩田書院、1997年
  • 黒田基樹 編 『長尾景春』 戎光祥出版、2010年
  • 古河市史編さん委員会編 『古河市史 資料中世編』 古河市、1981年
  • 佐藤博信 編 『関東足利氏と東国社会 中世東国論5』 岩田書院、2012年
  • 佐藤博信 編 『戦国遺文 古河公方編』 東京堂出版、2006年
  • 佐藤博信 他 編 『戦国遺文 房総編 第1巻』 東京堂出版、2010年

関連項目[編集]