阿衡事件

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阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経(ふじわら の もとつね、836 - 891年)と宇多天皇(うだてんのう、867 - 931年)の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。

経緯[編集]

この阿衡事件の基本史料は〔『政事要略』巻第30 阿衡事〕にまとめられ、『宇多天皇御記』(日記抄出)、887年仁和3年)11月21日の詔書から888年(仁和4年)11月とされる菅原道真『奉昭宣公書 菅丞相讃州刺史時』までの関係文書が収録されている[1][2]。 887年(仁和3年)11月17日、臣籍降下されていた源定省(みなもとのさだみ)が藤原基経の推薦により皇太子に、次いで天皇に即位した宇多天皇(21歳)は、左大弁橘広相(たちばな の ひろみ)に命じて、基経を関白に任じる詔勅を出した[3][4]。基経は先例により26日に一旦辞退する[5]。天皇は橘広相に命じて二度目の詔勅を出した[6]。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は中国の代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる[7]。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。池田晃淵[8]によれば基経は「厩馬を放散して、京中を驚かす如き、亂暴の擧動もなせしなるべし」怒りを表したという[9]。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。

藤原佐世が基経にこうした騒ぎの種になるようなことを言ったのは、橘広相の出世を妬んだためとする説もある[10]

888年 4月、天皇は左大臣源融に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。藤原基経の威を恐れた博士らの見解は佐世と同じであった。広相はこれに反駁するが、6月2日、天皇は先の詔勅を取り消して、広相を罷免した。天皇は無念の思いを日記に記している。

基経は執拗になおも広相を遠流(おんる。島流し等の追放刑)に処すよう求める。広相の無実を知る天皇は窮するが、讃岐守菅原道真が同11月これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書[11]を基経に送り、基経が怒りを収めたことにより、ようやく事件は終息した。この事件により基経は藤原氏の権力の強さを世に知らしめ、天皇は事実上の傀儡であることを証明した。

矛盾点[編集]

ところが、『日本三代実録元慶8年(884年)7月8日条によれば、同年6月7日に光孝天皇から政務の要請をされた際に、一旦これを辞退した際の藤原基経の返答に「如何、責阿衡、以忍労力疾、役冢宰以侵暑冒寒乎(果たして暑さや寒さに関係なく一生懸命に職務を行なうとしても、阿衡の責任を全うできるかどうか、私にはわかりません)」という語句を含めている。問題の「阿衡」という言葉を基経自身が用いていることより、基経が本当に「阿衡」の本来の意味を知らなかったのか疑問が持たれる。また『政事要略』巻30『宇多天皇御記』仁和4年6月2日条には天皇が以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する記述が残されている。

瀧浪貞子は、宇多天皇が「摂政」と「関白」を同じものと誤解し、さらに「阿衡」を基経に対する敬意を示そうと用い、基経はそれらの誤用に気づかせようとしてサボタージュしていたものと結論付けている[12]

一方、佐々木宗雄[13]は、基経の本心は「阿衡」という言葉の正否よりも、光孝天皇の時に彼に与えられていた政務の全面委任(王権代行の権限)の授与を示す言葉が宇多天皇2度の詔には明記されなかったために、天皇が自己の政治権限の削除を図っているとの反感を抱いて、光孝天皇の時と同等の権限を求めたのではないかという説を立てている[14]

参考文献[編集]

注・出典[編集]

  1. ^ 〔『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』:その基礎的考察〕 p.356下段。
  2. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 佐藤誠實博士(1839-1908)手校蔵本、阿波国文庫旧蔵 影印 93コマ。
  3. ^ 〔『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』:その基礎的考察〕 p.356上段に11月21日詔書「其万機巨細、百官惣己。皆関白於太政大臣、然後奏下、一如旧事:其れ万機巨細、百官己に惣べよ。皆太政大臣に関(あづか)り白(まう)し、然して後に奏し下すこと、一に旧事の如くせよ」とある。
  4. ^ 『阿衡の紛議 : 上皇と摂政・関白』p.47下段に「関白」の称はこの詔が初出であり、太政大臣あるいは摂政としての継続の意味であった可能性も指摘されている。
  5. ^ 天皇により高級官僚に任じられた者は一旦形式的にその着任を辞退し、その後天皇が改めて任じ、受諾する慣例があった。
  6. ^ 〔『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』:その基礎的考察〕 p.356下段に、翌27日基経の辞表に対する勅答「宜以阿衡之任為卿之任」。
  7. ^ 同p.356下段。
  8. ^ いけだこうえん、1847年-1920年。新藤透『松前藩出身の歴史学者池田晃淵書誌:経歴と事跡』による。つくばリポジトリ
  9. ^ 講述 『平安朝史』 1906年 早稲田大学出版部 p.258、国立国会図書館デジタルコレクション影印 135コマ目。しかし典拠は不明である。
  10. ^ 橘広相は宇多天皇の即位前に娘義子を嫁がせ、外孫が2人誕生していたが、これは基経にとって大きな障害だったということは想像に難くない。
  11. ^ 『奉昭宣公書 菅丞相讃州刺史時』日本古典文学大系 72 川口久雄 校注『菅家文草 菅家後集』 1966年 岩波書店 p.622 に附載)
  12. ^ 『阿衡の紛議 : 上皇と摂政・関白』 p.46-50
  13. ^ ささきむねお、1948年-、同志社大学文学部嘱託講師(2018年7月時点、吉川弘文館公表プロフィール)
  14. ^ 『摂政制・関白制の成立』
  15. ^ ことうしんぺい、1960年生- 、(公財)古代学協会(Webサイト)研究員

関連文献[編集]