阿部俊雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿部俊雄

阿部 俊雄(あべ としお、1896年4月27日 - 1944年11月29日)は、日本の海軍軍人太平洋戦争においてバリ島沖海戦において武勲を挙げ、のち空母・「信濃」艦長として戦死した海軍少将である。

生涯[編集]

愛媛県出身。阿部弘毅中将は兄。また、カシオ計算機元常務の阿部俊彦は実子にあたる。海軍兵学校46期。阿部は水雷学校高等科を修了し、同校教官や教頭、「朝霧」駆逐艦長を務めた水雷科専攻士官である。第八駆逐隊司令として太平洋戦争を迎え、バリ島沖海戦では駆逐艦4隻で優勢な連合国艦隊を撃退した[1][2]。第十駆逐隊司令としてミッドウェー海戦に参戦。

信濃艦長[編集]

連合艦隊旗艦であった軽巡洋艦大淀」艦長を経て、1944年(昭和19年)10月1日に「信濃」艦長に就任。阿部は、未だ艤装工事が終わらない「信濃」を横須賀から松山沖へ回航するよう命令された。信濃を護衛するのは第十七駆逐隊の駆逐艦3隻で、航空兵力は艦上攻撃機3機があったとする説[3]がある。出航時間及び航路につき航空機による攻撃を懸念した阿部と、潜水艦による攻撃を懸念する駆逐隊との間で議論があった。阿部は夕刻・遠州灘南方コースを選択したが、第十七駆逐隊は昼間・沿岸コースを主張していた。「信濃」は潜水艦により撃沈されており阿部の選択に対する批判もある[3]が、「信濃」は工事を急がされた関係で防御区画に不備があり、また水中聴音機が故障していたなど、「信濃」の戦列参加を急いだ海軍中央への批判も存在している[4]。同年11月29日、「信濃」はアメリカ海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃を受け、沈没し、阿部は退艦せず戦死した。一階級特進し少将に進級。48歳没。

出典[編集]

  1. ^ 『大本営海軍部』第二章
  2. ^ 『日本海軍戦場の教訓』第二章
  3. ^ a b 『回想の日本海軍』沢本倫生「空母信濃沈没の原因」
  4. ^ 『空母信濃の生涯』「軍艦旗と安田少尉」、『大海軍を想う』第十一章

参考文献[編集]

  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社 1956年
  • 伊藤正徳『連合艦隊の栄光』角川文庫 1974年
  • 大井篤『海上護衛戦』学研M文庫 ISBN 4-05-901040-5
  • 水交会編『回想の日本海軍』原書房 ISBN 4-562-01672-8
  • 豊田穣『空母信濃の生涯』集英社文庫 ISBN 4-08-750624-X
  • 豊田穣『雪風ハ沈マズ』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2027-5
  • 半藤一利秦郁彦他『日本海軍戦場の教訓』PHP文庫 ISBN 4-569-66001-0
  • 山本親雄『大本営海軍部』白金書房 1974年
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』 ISBN 4-8295-0003-4