陶弘房

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陶弘房
時代 室町時代後期
生誕 不詳
死没 応仁2年11月14日1468年12月27日
改名 五郎(幼名) → 弘房
別名 三郎[1]、五郎[1]、三郎五郎(通称)、五郎中務(通称)、中務五郎[1]、中務少輔[1]、越前守[1]
戒名 瑠璃光寺殿文月道周大禅定門[1][2][3]
泉福寺殿文月道周大居士[4][1]
墓所 瑠璃光寺山口県山口市香山町)
龍文寺(山口県周南市長穂)
主君 大内教弘政弘
氏族 陶氏右田氏→陶氏
父母 父:陶盛政[1]
養父:右田弘篤
兄弟 弘正[1]弘房
正室:仁保盛郷娘[1]
弘護[1]右田弘詮[1]

陶 弘房(すえ ひろふさ)は、室町時代後期の武将大内氏の重臣。

生涯[編集]

大内氏の一族であり、周防守護代職を務めた陶盛政の次男として生まれる。 長禄1年(1457年)同族の右田弘篤が出征中に死去し子がなかったため、大内教弘の命令によりその跡を継ぎ右田中務五郎と称した[1]

寛正6年(1465年8月26日に兄の弘正が21歳で討死したため、11月1日大内政弘の許しをもらい陶家に戻って家督を相続、陶中務少輔と名乗った[1]。また後に越前守と名乗る[1][5]

応仁2年(1468年)に、大内政弘に従い上京する[6]。 応仁2年(1468年)、応仁の乱の最大の激戦となった京都相国寺の戦いで討死した[1]。家督は嫡男の弘護が継いだ。

弘房没後の延徳4年(1492年)、妻(法名、華谷妙栄)が夫の菩提を弔うため、実家の周防国吉敷郡仁保荘小高野(現在の山口県山口市仁保地区)に安養寺を建立した。安養寺は明応元年(1492年)に弘房の持仏である薬師如来の仏像を本尊として保寧山瑠璃光寺と名前を変え、後に現在地に移転している。

脚注[編集]

注釈[編集]

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出典[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近藤清石 1885, 「大内系図」23.
  2. ^ 『保寧日記抄』
  3. ^ 瑠璃光寺牌』
  4. ^ 都濃郡誌』
  5. ^ 瑠璃光寺伝』
  6. ^ 山口県周南市竜豊寺所蔵、『絹本著色陶弘護像賛』

参考文献[編集]