陸軍公主嶺学校

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陸軍公主嶺学校(りくぐんこうしゅれいがっこう)とは、満州公主嶺にあった大日本帝国陸軍教育総監隷下の軍学校(実施学校)のひとつである。

概要[編集]

  • 関東軍歩兵大隊長・中隊長の実兵指揮教育、歩兵・砲兵工兵連隊長の召集教育と、諸兵種協同作戦に関する総合研究と戦車戦術教育実施などを目的した。
  • 総合研究に対応するために日本陸軍の実施学校の教導組織としては、最大組織である、各兵科の教導連隊を隷下に置く学校教導団を唯一持っていた。

第68旅団[編集]

動員された第68旅団は、『学校教導団の教官・教員・下士官兵等、現役が多く、素質優良で日本陸軍最精強部隊と期待された』とする著作物が多く存在するが、大東亜戦争開戦後には大きく徴兵人数が増加しており、学校の教導連隊は、従来の最低でも新兵教育での第二期検閲終了後の成績優秀者を以て編成する近衛兵と並ぶ最精鋭部隊と言う姿は既になく、留守師団の補充隊と変わらずに普通に新兵教育を担う場の一つと化していたのが実情であった。

但し、前線部隊が下級将校に上級職を執らせざる負えない全軍状況下に於いて、学校での人事として一階級・二階級上級者の中佐大隊長少佐中隊長 等が居たり、第68旅団は、『大隊長.中隊長の階級は頭でっかち、兵は教育途上で実戦経験なし』と言うのが実態であったが、戦術研究のため一式機動四十七粍速射砲一〇〇式機関短銃一〇〇式火焔発射機、狙撃銃などの最新兵器が優先的に配備されたいたのも事実である。

素質優良で日本陸軍最精強部隊とは、戦前の平時の軍学校教導連隊のあり方から発せられた発言であって、急激な新兵増加は教育の場が不足しており、満州、中国、南方にも未教育兵を送っている状況下では、軍学校教導連隊を新兵教育を行う場とするのは当然の成り行きであった。本当に短期間での軍学校教導連隊の体制変化であるので、現場の学校以外の前線や部隊では、高級将校であっても、その教導連隊の体制変化の実情を知らず、戦前の素質優良で日本陸軍最精強部隊の印象・感覚のままでの思い込みでの教導連隊の評価であった。そのため大本営方面軍首脳が、第68旅団は特別な旅団だから1コ師団の戦力に相当すると本当に信じている発言があり、旅団参謀が閉口している。[1]

学校沿革[編集]

学校組織[編集]

  • 本部
  • 研究部:中心研究目的:「対ソ軍要塞.堅固陣地突破戦」
  • 教育部
  • 教導団
    • 教導歩兵団司令部
      • 教導歩兵第1連隊
      • 教導歩兵第2連隊(*編成上の定数で実際には欠)
    • 教導砲兵連隊野砲1中隊、10榴2中隊、15榴1中隊、観測1中隊)
    • 教導戦車連隊(*公主嶺陸軍戦車学校が新設されて、同校教導連隊に転属。教導業務を同教導連隊に委託[注釈 12]
    • 教導工兵連隊
    • 教導通信
    • 教導制毒隊
  • 材料廠

教育対象及び期間[編集]

人事[編集]

歴代校長[編集]

  • 冨永信政 少将(陸士21期):1939年8月15日 -1940年12月2日(*1939年10月2日 中将)
  • 関亀治 中将 (陸士19期) :1940年12月2日 - 1941年9月11日
  •    (欠員)      :1941年9月11日- 1941年10月15日
  • 牛島満 中将 (陸士20期) :1941年10月15日 -1942年4月1日
  • 矢野音三郎 中将(陸士22期):1942年4月1日 -1942年7月15日
  • 北野憲造 中将(陸士22期):1942年7月15日 - 1943年10月15日
  •    (欠員)      :1943年10月15日 - 1943年12月16日
  • 村上啓作 中将(陸士22期):1943年12月16日 - 1944年8月30日

歴代幹事[編集]

  •       (陸士 期):194 年 月 日- 194 年 月 日
  • 山田国太郎 大佐(陸士27期):1940年3月9日 - 1941年4月10日(*1940年8月1日 少将 )
  • 平田正判 少将(陸士25期):1941年3月1日- 1941年11月6日
  •       (陸士 期):194 年 月 日- 194 年 月 日
  • 田上八郎 少将(陸士25期):1942年9月14日- 1943年10月1日 (*1943年6月10日 中将 *1942年12月1日- 1943年3月18日: 兼 公主嶺学校 教導歩兵連隊長)

教官[編集]

  • 深堀游亀 大佐(陸士28期): 1940年8月1日 - 194 年 月 日(*兼 公主嶺学校 教導歩兵連隊長:1940年8月13日 - 1941年10月15日 )
  • 重見伊三雄 大佐(陸士27期):1940年3月9日 - 1940年12月2日
  • 松田巌 大佐(陸士28期):1940年12月2日- 1941年10月15日
  • 渡辺粂一 大佐(陸士31期):1941年7月7日- 1941年11月22日
  • 重見伊三雄 大佐(陸士27期):1941年12月1日 - 1942年12月1日
  • 高島辰彦 大佐(陸士30期):1942年4月24日- 1943年3月11日(*1943年3月1日 少将 )
  • 栗栖猛夫 大佐(陸士27期):1943年3月15日- 1944年3月22日(*1944年3月1日 少将 )
  • 岩本高次 大佐(陸士28期)1943年10月15日- 1944年2月10日

研究主事[編集]

  • 細見惟雄 大佐(陸士25期):1939年8月1日- 1940年12月1日
  • 古川浩 大佐(陸士33期):1942年8月1日- 1944年3月1日

学校 附[編集]

  • 洪思翊 少将(陸士26期):1942年4月17日- 1944年3月2日

教導団長[編集]

  • 坪島文雄 大佐(陸士27期):1940年10月1日- 1941年9月1日(*1940年12月2日 少将)
  • 古閑健 少将(陸士25期):1941年9月1日- 1942年12月1日
  • (兼)田上八郎 少将(陸士25期):1942年12月1日- 1943年3月18日(*本務 公主嶺学校幹事 )
  • 諫山春樹 少将(陸士27期):1943年3月18日- 1944年3月22日(*1943年10月29日 中将 )
  • 栗栖猛夫 少将(陸士27期):1944年3月22日 - 1944年6月23日  (*後職:第68旅団長 )

教導歩兵連隊長[編集]

  • (兼)深堀游亀 大佐(陸士28期): 1940年8月13日 - 1941年10月15日(*本務 公主嶺学校教官 )
  • 尾子熊一郎 大佐(陸士25期):1941年10月15日 - 1943年8月2日
  • 沖静夫 大佐(陸士28期):1943年8月2日 - 1944年6月23日  (*後職:第68旅団 歩兵第126連隊長 )

教導砲兵連隊長[編集]

  • 重永潔 中佐(陸士28期):1940年8月1日 - 194 年 月 日
  • 宇宿達二 中佐(陸士31期):1942年7月22日- 194 年 月 日
  •       (陸士 期):194 年 月 日- 194 年 月 日

教導工兵連隊長[編集]

  • 本道博 少佐(陸士33期):1940年8月1日 - 1941年10月15日
  • 遠藤秀人 少佐(陸士35期):1941年10月15日 -1943年6月10日
  • 後藤健一 少佐(陸士40期):1943年6月10日 - 1944年6月23日  (*後職:第68旅団工兵隊長 )

教導戦車隊長[編集]

  • 山田国太郎 大佐(陸士27期):1939年7月23日 -1940年3月9日
  • 玉田美郎 大佐(陸士25期):1940年3月9日 - 1940年12月1日

   ⇒ 1940年12月1日:教導戦車隊は、公主嶺陸軍戦車学校教導戦車連隊として転出。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 『陸軍公主嶺学校と星兵団』

注釈[編集]

  1. ^ 実質、諸兵種連合のミニ戦略単位である独立混成旅団なのだが、「独立混成」の付かない、兵種名の付かない.ただの「旅団」であるので注意。同じ様な例に「第65旅団」がある。共通点があるとすれば、どちらも、常設の「軍学校教導団」や「第65独立歩兵団」の動員部隊であること。しかしこれだと、「樺太混成旅団」はどうして混成?と言うことになる。法令省令軍令等にも特に当てはまる所がない。
  2. ^ 憲兵科を除く各兵科は、兵科の中の一つである各兵種となった。(例)これにより、従来は不可能であった、砲兵大尉を歩兵連隊内の歩兵砲中隊長や、連隊砲中隊長への補職が可能となり、転科手続きなく人事行政に断髪力を持たせ、新兵器・新戦術に対応した戦備・戦力拡大図ることが可能となった。
  3. ^ 戦車は、歩兵科戦車兵から兵科機甲兵となる。
  4. ^ 乗車騎兵に歩兵出身者の補職も可能となる。
  5. ^ 挺身兵には、戦車も山砲もあるが航空であったり、船舶兵には、高射砲や野砲もあるが工兵である等、従来の兵科の垣根を跨るものの柔軟運用が可能となった。
  6. ^ 公主嶺学校の教導業務は、そのまま公主嶺戦車学校教導戦車隊が継続して実施。
  7. ^ 全陸軍学校長が教育総監部に召集され、総監の山田乙三大将より「爾今国軍の教育訓練の重点を南方対米国軍戦闘に置く」と厳命された。これは、直前にあった陸軍大学校での御前兵棋講演で、陸軍が未だに東部ソ満国境侵攻が主戦略として実施されたのを見聞した天皇が、呆れ苦言を発したものからである。
  8. ^ 天皇は南東方面、北東方面の玉砕、撤退に多大な危機を感じており、既に1年前より統帥部には夜間の参内構わずの通達済みで、軍服での就寝を行う程危機感を持っていた。それにも関わらず、一体とならない戦略への苦言であった。実際に、この9月より急速に事態は深刻化して行く。そして絶対国防圏の策定を急ぐ結果となる。
  9. ^ その結果、戦略の整理から、兵器の研究・試作も整理され、物動も整理、再構築を行う。
  10. ^ 歩兵第126連隊。砲兵・工兵。通信。
  11. ^ 実戦力である歩兵団司令部と各種兵科の教導部隊を持っていることから、学校側からの発案で動員を計画した。
  12. ^ 同校は後に移転し四平陸軍戦車学校。さらに同校教導連隊は、教導戦車旅団の戦車第24連隊に改編。教導業務は、そのまま委託継続。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典コンパクト版(上)』新人物往来社、2003年。