雨宮製作所

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雨宮21号丸瀬布森林公園いこいの森、北海道紋別郡遠軽町/旧丸瀬布町、2006年5月21日)
雨宮製作所の製造銘版(総武流山電鉄ワム301流山駅、1979年4月15日)

雨宮製作所あめみやせいさくじょ[1])は、明治末期から昭和初期にかけて鉄道車両を製造していた企業1907年、鉄道資本家であった雨宮敬次郎の個人経営の工場「雨宮鉄工所」として操業を開始した。

沿革[編集]

雨宮は大日本軌道[2]という全国に支社(路線)を展開する蒸気軌道を運営しており、その路線へ車両を自家生産し廉価に供給することを目的としたとされる。

深川区和倉町に雨宮鉄工場(後に株式会社雨宮鉄工所)を1907年(明治40年)11月に設立した[3][4]。その後1911年(明治44年)1月に敬次郎がなくなると大日本軌道は娘婿の亘が社長に、養子の豊次郎が常務取締役となり経営を引き継ぎ、7月に雨宮鉄工所は大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となった。工場は第一次大戦後の好況に乗じ業績を伸ばしていた[5]。亘は1918年(大正7年)になくなり豊次郎が大日本軌道の社長に就任すると工場は1919年(大正8年)7月に独立して株式会社雨宮製作所となった[6]。代表取締役は晩年の敬次郎の秘書役であり大日本軌道の常務取締役の小澤信之甫が代表取締役になり豊次郎は取締役に他の取締役も雨敬の関係者が就任していた。しかし1922年(大正11年)になると代表取締役の小澤を除き雨宮一族と雨敬の関係者は姿を消した[7]

1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって東京深川にあった工場が壊滅してしまう。その後は再建に乗り出し、1927年(昭和2年)に新潟鐵工所と共同で日本初のディーゼル機関車を、1928年(昭和3年)には日本初のディーゼル動車(長岡鉄道キロ1形)を製作するなど、新技術開発に意欲的であった。

ところが昭和金融恐慌の波に呑まれ地方私鉄の開業は途絶えて受注は激減し、1931年(昭和6年)には倒産、事実上活動を停止してしまう。同年に一旦合資会社雨宮工場として再起を図り、倒産前の仕掛品を中心に細々と製品出荷を行った[8][9]が、それも1932年(昭和7年)の神中鉄道キハ1 - 6の大改造工事を最後に活動の形跡が絶えており[10]、最終的に1934年(昭和9年)ごろに会社は整理されたものと考えられている[11]

生産品は小型の蒸気機関車から客車電車気動車まで多岐にわたる。機関車の主な納入先は私鉄であり、国鉄には工事用としてケ100形100 - 105(1919年)およびケ160形160 - 169(1922年)の2形式が納入されており、他に専用鉄道、森林鉄道、海軍にも納入されている。

  • 1907年(明治40年)11月 雨宮鉄工場設立
  • 1911年(明治44年)
    • 1月 雨宮敬次郎死去
    • 7月18日 株式会社雨宮鉄工所設立
    • 7月 大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となる
  • 1918年(大正7年) 雨宮亘死去
  • 1919年(大正8年)7月 株式会社雨宮製作所設立
  • 1923年(大正12年)9月 関東大震災により工場壊滅
  • 1931年(昭和6年) 合資会社雨宮工場設立

製品[編集]

蒸気機関車
当初人車軌道を蒸気動力化するためにアメリカから輸入されたトラム・ロコを模倣した「へっつい」形(車高が非常に低く、簡素な構造)と称される構造の機関車の製造からスタートし、客車もこれに牽引される非常にコンパクトな車両から製造を開始した。設計については1910年代にコッペルクラウスなどの欧米メーカー製品に学んだ、極めて堅実かつ実用的な設計のウェルタンク機関車に発展し、これは会社閉鎖まで主力商品として各地の小鉄道に供給された。更にこれらの設計は1920年代以降、立山重工業協三工業など各地に設立された地方の車両メーカーの良き手本となった。
電車
京成電気軌道[12]江ノ島電氣鉄道京王電気軌道および玉南電気鉄道など近隣の鉄道への納入実績が多く、他にも「馬面電車」として有名な花巻電鉄への納入が知られている。
電車においては、台車に板台枠とウィングバネ式軸箱支持機構を備えたヨーロッパ風の設計を多用しており、後に日本鉄道自動車がその模倣品を製作している。
気動車
後発であったものの、当初より両運転台式での車両設計を行うなど先進的な構想を持っていたことが知られ、純粋な単端式気動車の製作例はごく少数に留まる。その製造実績の大半は実用性の高い2軸両運転台式の半鋼製車が占めていた[13][14]

脚注[編集]

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  1. ^ 1930年(昭和5年)に九十九里鉄道へ納入したキハ201の『雨宮製作所カタログ』では、ローマ字表記で“AMEMIYA SEISAKUJO”と記述されている --『軽便鉄道時代』(p159)より。
  2. ^ 設立は1908年(明治41年)7月『銀行会社要録 : 附・役員録. 第十三版』(国立国会図書館デジタルコレクション)『軽便王国雨宮』では8月
  3. ^ 『工場通覧』明治42年小川の調べでは大日本軌道への統合直前におそらく税法上の必要性から株式会社雨宮鉄工所を1911年7月18日に設立している(「商業登記」『官報』1911年7月25日
  4. ^ 工場敷地の資金はのぶ子夫人のへそくりから(『経済風土記. 東海關東の卷』)と伝えられているが『夫婦成功美談』によるとのぶ子夫人は1903年(明治36年)になくなっておりつじつまがあわない
  5. ^ 職工数をみると年ごとに増加している。大正7.8年度117人大正9年度137人大正10年度213人『工場通覧』各年度版(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第28回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 豊州鉄道(後の大分交通豊州線)ジ12(40人乗り2軸ガソリンカー。1931年製)や能登鉄道キホハニ1(70人乗り荷物室付き2軸ボギー式ガソリンカー。1932年2月製)などが同工場名義で出荷されている。
  9. ^ 軍機保護法下の汽車・軽便』p.129、『北陸道 点と線(下)』p.68。
  10. ^ 北陸道 点と線(下)』p.68。
  11. ^ 『銀行会社要録 : 附・役員録. 38版 昭和9年刊行』が最後で『銀行会社要録 : 附・役員録. 39版 昭和10年刊行』には掲載されていない(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 本多貞次郎が監査役にいる『日本全国諸会社役員録. 第34回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 2軸ボギー車は長岡鉄道キロ1・2、十和田鉄道キハ102、そして能登鉄道キホハニ1の4両のみである。
  14. ^ 北陸道 点と線(下)』pp.68・70。

参考文献[編集]

(著者の五十音順)

  • 岡本憲之 『軽便鉄道時代 - 北海道から沖縄まで“せまいせんろ”の軌跡』 JTBパブリッシング〈キャンブックス〉、2010年2月1日 発行、初版。ISBN 978-4533077562。
  • 小川功「雨宮敬次郎」『日本の鉄道をつくった人たち』悠書館、2010年
  • 中川浩一ほか『軽便王国雨宮』丹沢新社、1972年
  • 西裕之 『全国森林鉄道 - 未知なる“森”の軌道をもとめて』 JTB〈JTBキャンブックス〉、2001年10月1日 発行、初版。ISBN 978-4533039799。
  • 牧野俊介 『軍機保護法下の汽車・軽便』 JTBパブリッシング〈達人が撮った鉄道黄金時代(3)〉、2009年4月1日 発行、初版。ISBN 978-4533074295。
  • 湯口徹 『私鉄紀行 昭和30年代北陸のローカル私鉄をたずねて 北陸道 点と線(下)』 エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン〈レイルNo.46〉、2003年10月21日 発行、初版。ISBN 978-4871124461。

関連項目[編集]