雪印集団食中毒事件

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雪印集団食中毒事件(ゆきじるししゅうだんしょくちゅうどくじけん)とは、2000年(平成12年)6月から7月にかけて、近畿地方を中心に発生した、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の乳製品(主に低脂肪乳)による集団食中毒事件。

本事件は、認定者数14,780人[1][2]の、第二次世界大戦後最大の集団食中毒事件となり、雪印乳業の社長、石川哲郎が引責辞任に追い込まれた。

背景[編集]

20世紀における牛乳の生産は、乳業メーカーにおいて製品用に処理された後、学校給食施設などの大口顧客のほかに、牛乳販売店と呼ばれる専門の小売業者により個別宅配や「ミルクスタンド」などと呼ばれる小売店を通して消費者に流通した。しかし、冷蔵輸送技術の発達、「ゲーブルトップ」と呼ばれる大型の製品容器の普及(加えてそれを収納できる家庭用冷蔵庫の普及)、そして「スーパーマーケット」と呼ばれる大型小売店の急速な進出により、1970年代ごろまでに牛乳の流通は大規模化し、一般の消費者が日常的に買い求めるようになった。

また、乳業メーカーも大規模な滅菌加工設備が必要となる性質からガリバー企業化し、本事件の発生した2000年には日本全体で3社による寡占状態となっていた。大企業によるスケールメリットの当然の帰結として、工場の集約化・大規模化が推し進められ、1工場が流通させる製品量は飛躍的に増大していた。

また、1980年代以降は日本人の栄養状態が充足し高い滋養が強みであった牛乳の魅力が薄れ、牛乳の消費量は減少し始めていた。このため乳業メーカーは「加工乳」と呼ばれるチルド飲料に力を入れ始めており、特に脂肪が少なくカルシウムなどが濃縮された脱脂粉乳を水で戻した低脂肪乳などの飲料は、健康ブームに乗った商品として注目されていた。

また、20世紀に急速に発展した日本の製造企業は、社員に熾烈な出世競争を行わせることによって士気を維持したが、結果として特に管理職は「自らの経歴に傷がつくこと」を極端に恐れるようになり、一部の企業においては不祥事を隠蔽する体質に侵されつつあった。また、企業内の縦割り組織である「製造部」「開発部」「営業部」などのセクションが社内派閥化することにより、社長や重役ポストをセクション間で奪い合う社内政治も常態化し、企業トップの企業全体への統制力は低下していた。

経緯[編集]

2000年3月31日、雪印乳業大樹工場の生産設備で氷柱の落下で3時間の停電が発生し、同工場内のタンクにあった脱脂乳が20度以上にまで温められたまま約4時間も滞留した。この間に病原性黄色ブドウ球菌が増殖して4月1日製造分の脱脂粉乳内に毒素エンテロトキシンA)が発生した。[1]本来なら滞留した原料は廃棄すべきものであったが、殺菌装置で黄色ブドウ球菌を死滅させれば安全と判断し、脱脂粉乳を製造した。工場は、4月1日分の脱脂粉乳に細菌が異常繁殖していることを4月3日に把握したが、製造課長は叱責を恐れてこれを隠蔽した。[3]この脱脂粉乳はそのまま出荷されたほか、4月10日製造分の脱脂粉乳に再利用された。黄色ブドウ球菌自体は死滅したが、毒素が残ったままの脱脂粉乳はかくて大阪工場に送られた。

この汚染された脱脂粉乳は、大阪工場(大阪府大阪市都島区都島南通)で6月21日から29日までの間に製造された「雪印低脂肪乳」に使用されたほか、6月25日・26日に製造された加工乳3種(「のむヨーグルトナチュレ」「のむヨーグルト毎日骨太」「コープのむヨーグルト」)の製造に使用され[1]、スーパーマーケットを中心とした関西地方一円の小売店に出荷された。

2000年6月25日、雪印低脂肪乳を飲んだ子供が初めて嘔吐や下痢などの症状を呈した。6月27日に大阪市内の病院から大阪市保健所に食中毒の疑いが通報された。6月28日には通報多数のため大阪市保健所が大阪工場に立入調査を行い、疑いのある製品の自主回収と社告の新聞掲載を指導した。しかし大阪工場は、本社重役が株主総会出席中のため判断を先延ばしとし、翌6月29日にようやく約30万個の製品の回収のみを始めたが社告は行わなかった。同日、大阪工場の対応に危機感を抱いた大阪市保健所は独自で記者発表を行い、食中毒の疑いを公表した。同日深夜、大阪工場が初めて記者発表を行い、当座の低脂肪乳製造休止を発表した。(しかし上述のとおり、製造休止の判断を棚上げしていた6月28日・29日製造分の低脂肪乳も汚染されており、大阪工場の事なかれ主義は結果として致命的な被害拡大をもたらした。)

公表後は、被害の訴えが関西一円に殺到し、大阪府・兵庫県和歌山県・滋賀県など広範囲に渡って被害が報告され、最終的に14,780人という前代未聞の食中毒被害者となった。被害者の訴えた症状は、嘔吐・下痢・腹痛であり、総じて比較的軽いものであったが、病院へ入院に至った重症者もいた。奈良県の80代の女性1名が入院後に死亡しているが、大阪地裁の判決では入院後の医療ミスが原因と判断されている。

6月30日に、和歌山市衛生研究所が検体の低脂肪から黄色ブドウ球菌の毒素産出遺伝子を検出した。同日、大阪市保健所が正式に製品の回収を命令した。7月1日朝、大阪市保健所と厚生省の担当者が大阪工場に立入調査を行い、製造ラインの調合タンクと予備タンクの間のバルブに黄色ブドウ球菌が繁殖しているのを検出した。しかし大阪支社は発表を逡巡し、直後の記者発表では汚染物質の存在を否定した。同日午後の記者発表でようやく汚染を認めたが、社長は会見内容を事前にまともに聞かされておらず、会見中の担当者の発表に驚き「君、それは本当かね」と口を挟む混乱ぶりであった。7月2日大阪市保健所は、大阪工場に対して無期限の操業停止を命じた。(その後、操業再開されることはなく、2001年3月末に閉鎖された。)

その後も、雪印乳業は場当たり的な対応に終始し、自主的な問題解決の意思が消費者に示されることはなく、新たな事実は常に行政機関や司直によって明らかにされる状態であった。最も有名なのは7月4日の会見であり、この日も雪印乳業の社長石川哲郎は、「黄色人種には牛乳を飲んで具合が悪くなる人間が一定数いる。」などの説明を繰り返し、1時間経過後に一方的に会見を打ち切った。エレベーター付近で寝ずに待っていた記者団にもみくちゃにされながら、記者会見の延長を求める記者に「では後10分」と答えたところ「何で時間を限るのですか。時間の問題じゃありませんよ。」と記者から詰問され、「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ!!」と発言[4]。一方の報道陣からは記者の一部が「こっちだって寝てないですよ! そんなこと言ったら! 10ヶ月の子供が病院行ってるんですよ!」と猛反発。石川哲郎はすぐに謝ったものの、この会話がマスメディアで広く配信されたことから、世論の指弾を浴びることとなった。石川は7月9日に入院し、そのまま社長を辞任した。

雪印乳業に対する世間の不信感は日を追うごとにつのり、小売店からは雪印の商品が次々と撤去され返品もできない牛乳が廃棄される様子が連日報道され、ブランドイメージも急激に悪化した。そのため7月11日に雪印乳業全工場の一時操業停止が発表された。

その後、安全点検が終了し、8月2日に厚生省が大阪工場以外の工場の安全宣言を発表したため、生産は徐々に回復していった。しかし、8月に入り大阪府警の捜査により食中毒の真の原因は大樹工場の脱脂粉乳であることが明らかになるにつれ、ここでも大樹工場による製造記録などの改ざん・隠蔽が繰り返され、信用の失墜は加速した。

大阪府警察の捜査により、雪印乳業社長、専務、大樹工場長、製造課長、製造課主任の5人が大阪地検に書類送検されたが、社長と専務は事件の予見不可能として不起訴処分となった。工場長と製造課主任には食中毒を発生させた過失に加え、帯広保健所に虚偽の書類を提出した食品衛生法違反のかどで2003年5月27日に大阪地裁で執行猶予付きの禁固刑が言い渡された。製造課長は公判中に死亡した。

その後の混乱[編集]

その後、雪印グループの製品が全品撤去に至るなど、親会社の不祥事とは言え、グループ会社全体の経営が悪化する。そして2001年(平成13年)から2002年(平成14年)にかけてBSE問題が表面化。これによって追い打ちをかけられたグループ会社の雪印食品は、雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく、子会社不監督)を発生させた。この事件によって信用失墜は決定的になり、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。さらにこれが原因で、同社がスポンサーであった『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)が、2002年3月31日で放送終了となった。

1997年の山一證券北海道拓殖銀行日本長期信用銀行の倒産ともあわせ、第二次世界大戦後のバブル経済まで絶対的に信奉されてきた「一流企業」ブランドに対する信頼は崩れ落ち、高度経済成長期以来の価値観の転換を象徴する事件となった。

雪印グループは、スキージャンプアイスホッケーなどウィンタースポーツの振興に寄与していたが、雪印グループの再編により雪印の実業団は、(スキージャンプのチームである)「チーム雪印」を除き廃され、多くの選手が競技を続けられなくなった。長引く不景気により多くの企業が実業団に資金を注げなくなったこともあり、1998年長野冬季オリンピックではスキージャンプで金メダルを獲得するまでに至っていた日本のウィンタースポーツは急速に凋落した。

影響は雪印だけに留まらなかった。他の乳業メーカーへ注文が殺到したために、乳業各社で生産・配送が受注に追いつかなくなった。また、乳業以外の食品メーカーでも衛生管理をめぐる不祥事が明るみに出たり、パントマトジュースなどをはじめとした食品への異物(など)が混入する騒ぎなど、食品業界全体の食の安全に大きな影響を与えた。

さらにこの事件が社会に与えた影響として以下のものが挙げられる。

  • 商品名への「牛乳」の命名基準が厳しくなり、コーヒー牛乳フルーツ牛乳などの名称が消えた。
  • 低脂肪乳から成分無調整牛乳への需要の集中などにより、夏場の牛乳不足が深刻となる。
    • 当初、牛乳・乳製品の需要は低下すると予測され、同業各社は減産を検討していたが、予測に反してほとんど需要が低下しなかった上、最大手の雪印乳業が事実上操業停止に追い込まれたため、明治乳業(現:明治)・森永乳業などの大手から地域の零細メーカーまで、フル操業でも需要を満たせないような状況になった。
    • お膝元である北海道では、雪印全工場の操業停止により「地元で作られた牛乳を地元で飲めない」という問題が発生。中でもパイロットファームで有名な、根釧原野を有する釧路・根室地方では、市乳工場であった雪印釧路工場が撤退していたため、他地域以上に問題視された。このためよつ葉乳業は首都圏向け商品に特化していた根釧工場で、2004年から「根釧牛乳」を生産・発売することとなった。
  • 乳製品の再利用について、2001年5月に社団法人日本乳業協会が「飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン[5]」を作成し、「工場の冷蔵管理下にある一定量の製品についてのみ行われる」ことが決定された。
  • 大阪工場が総合衛生管理製造過程HACCPが要件、厚生労働省が審査/承認)承認工場であったことから、それまで書類審査のみであった承認審査に現地調査が導入されるとともに、3年ごとに更新申請が必要とされるなど、「総合衛生管理製造過程」見直しのきっかけとなった。
  • 当事件をきっかけに雪印乳業大阪工場が閉鎖。跡地にマンション生活協同組合おおさかパルコープ都島支所が建設された。
  • 雪印乳業は、当事件発生を理由にJTキーコーヒーとともに展開予定だった『Roots』ブランド[6]を返上・離脱した[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 雪印乳業食中毒事件の原因究明調査結果について(最終報告) (Report). 厚生省. (2000-12). http://www.mhlw.go.jp/topics/0012/tp1220-2.html 2012年4月16日閲覧。. 
  2. ^ ただしこれは自己申告を中心とする数字であり、額面通りには受け取れない。医学的な検討により、第3次診定で食中毒と認定できたのは13,420人に減少しており(『時事ニュースワード2001』(時事通信社)はこの数字を被害者数としている)、さらに最終の第5次診定では4,852人まで減少している。
  3. ^ 北海道新聞取材班『検証・「雪印崩壊」』pp.156
  4. ^ 雪印乳業食中毒事件 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
  5. ^ 社団法人日本乳業協会 (2001年5月). “飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン (PDF)”. 日本ミルクコミュニティ株式会社. 2004年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月14日閲覧。
  6. ^ 雪印では、「Roots」ブランドによるテトラパック入りのミルクコーヒーをスーパーマーケットとコンビニエンスストア、雪印牛乳販売店の販売ルートで発売する予定だった。
  7. ^ なお、『Roots』ブランドは、JTとキーコーヒーの2社で展開していたが、2015年9月、JTが飲料事業から撤退してサントリー食品インターナショナルへブランドを譲渡した(2016年1月時点)。

関連項目[編集]