露土戦争 (1877年)

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露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦い英語版 シプカ峠は現在のブルガリアに位置する。1877年7月の戦いでロシア軍が確保、その後2度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にはオスマン軍を完全に撃退した
『敗北。パニヒダ。』(ロシア語: Побежденные. Панихида.ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによる露土戦争の一場面を描いた油彩画。膨大な数の兵士達の遺体を前に、正教会司祭パニヒダを捧げている。[1]

露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国オスマン帝国の間で起こった戦争のひとつ。(他の露土戦争については、露土戦争を参照。)

ルーマニアではルーマニア独立戦争、トルコではヒジュラ暦の暦年にちなんで93年戦争 (Doksanüç Harbi)とも呼ばれている。

目次

開戦までの経緯

1875年に発生したボスニア蜂起を支援するため、1876年にセルビアモンテネグロはオスマン帝国に宣戦を布告した。しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦を余儀なくされた上、同時期にブルガリアで起こった反オスマン反乱である4月蜂起も鎮圧される結果となった。この時に4万人に及ぶブルガリア人がオスマン帝国により虐殺され、このためイギリスの支援が得られなくなり、単独でロシアにあたらざるを得なくなった。これらバルカン半島における諸紛争を収拾するための国際会議が1876年12月からイスタンブルで開かれたが、翌年1月には物別れに終わり、ロシアは戦争への介入を決意した。

戦争を始めるにあたり、ロシアはクリミア戦争での苦い経験もあって、汎スラヴ主義的心情に訴えるべくバルカン半島スラブ民族独立のための戦争であると宣伝した。しかしその背後には地中海への通路を獲得しようとするロシアの意図があり、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を持った戦争でもあった。

戦争の経過

ロシア帝国は1877年4月24日(4月12日)にオスマン帝国に宣戦布告し、露土間の戦端が開かれた。

バルカン半島アナトリア半島東部が戦場となり、ロシア軍はバルカン半島ではプレヴェン要塞を守るオスマン・パシャの粘り強い抵抗の前に約5ヶ月におよぶ包囲戦を余儀なくされた。その後、シプカ峠を確保したロシア軍はプレヴェンを完全に孤立させることに成功し、戦いを優位に進めた。プレヴェン要塞が陥落すると、ロシア軍はイスタンブルに向かって進撃し、イスタンブルの近郊のアヤ・ステファノス(サン・ステファノ)にまで到達した。 この間にアナトリア東部ではカルスが陥落し、バルカン半島では露土戦争の引き金となったセルビアが戦争再開を巡る国内対立の末に戦線に復帰した。

こうして1878年3月、ロシアの勝利で戦争は終わり、サン・ステファノ条約が結ばれた。 ロシアの勝利の要因の一つとなったのは1874年に施行された徴兵制度であり、その点ではクリミア戦争での敗戦以来、皇帝アレクサンドル2世が行ってきた「大改革」と呼ばれる諸改革の成果が出たと見ることもできる。

戦後の影響

サン・ステファノ条約によって、セルビアモンテネグロルーマニアの各公国はオスマン帝国から独立し、またロシアの影響を強く受ける広大な自治領大ブルガリア公国」の成立が定められた。

軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が反発した結果、ベルリン会議が開かれ、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれた。ベルリン会議後、ロシアでは皇帝アレクサンドル2世への失望と不満が広がっていった。この戦争を戦ったルーマニアはロシアと同盟した際に戦争終了後自国に対する領土要求を行なわないと取り決めていたが、ベルリン会議によりベッサラビア南部をロシアに併合されてしまった。

一方ギリシアはオスマン帝国の不利を見て参戦を決意したものの、その矢先に露土間の休戦が結ばれたために機を逸し、得るものなく軍を引き返した。

ブルガリアやカフカスでは戦後にムスリム多数が難民となり、オスマン帝国へと逃れシリアヨルダンなどに移民した。

オスマン帝国では戦争中、非常事態を口実にした無期限の憲法停止と議会の閉鎖が行われた。これにより第一次立憲制は崩壊し、スルタン・アブデュルハミト2世による専制体制が敷かれることとなった。

脚注

今日は何の日(5月24日

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