青山幸宜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青山幸宜
Yukiyoshi Aoyama.jpg
時代 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代
生誕 嘉永7年10月20日1854年12月9日
死没 昭和5年(1930年2月5日
改名 峯之助(幼名)→幸宜
戒名 院殿翼齋大居士
墓所 東京都港区南青山長青山寶樹寺梅窓院浄土宗
官位 従五位下大膳亮子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇昭和天皇
美濃郡上藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸哉、母:戸田氏庸
兄弟 幸宜、澄子(松浦詮夫人)、
禄子(久松定弘夫人)、
錫子(岡部長職夫人)、
鈎子(立花寛治夫人→岩城隆邦夫人)
最初の妻:広幡忠礼娘・定子
2度目の妻:井伊直弼娘・待子
3度目の妻:藤堂高邦娘・文子
幸正、幸直、幸泰、岩城隆徳[1]、幸高、中井幸敬、孝子(細川源三郎[2]夫人)

青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、江戸時代末期の大名美濃国郡上藩7代(最後の)藩主。郡上藩青山家11代。明治維新後は華族子爵)に列し、貴族院議員を務めた。

生涯[編集]

嘉永7年(1854年)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。

元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉が凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津藩で戦うなどしている。

明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、同年7月8日に子爵を叙爵[3]。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた[4]。明治23年(1890年)には貴族院議員となる[4]

昭和5年(1930年)、2月5日に死去。享年77。

栄典[編集]

人物[編集]

市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。

家族・親族[編集]

  • 父:青山幸哉
  • 母:戸田氏庸の娘
  • 最初の妻:定子(広幡忠礼の娘)
  • 2度目の妻:待子(井伊直弼の娘)
  • 3度目の妻:文子(藤堂高邦の娘)
    • 長男:青山幸正(ゆきまさ、1878年 - 1904年
    • 次男:青山幸直(ゆきなお、1884年 - 1947年) - 第12代当主
      • 孫:青山幸壽(ゆきなが、1918年 - 1986年) - 第13代当主
    • 三男:青山幸泰
    • 四男:岩城隆徳(旧出羽亀田藩主・子爵岩城隆邦の養子)
    • 五男:青山幸高(ゆきたか)
      • 孫:青山幸喜(現・第14代当主)
    • 六男:青山幸敬(ゆきひろ、中井に改姓、のち復姓)
  • 長女:孝子(細川源三郎夫人)

長男の幸正は、父に先立って1904年に死去した[7]。幸宜の後は次男の幸直が継ぎ、幸直が1947年7月に没すると長男の幸壽が跡を継ぐ[7]。幸壽は1986年に没し[7]、現在は幸宜の五男幸高の孫である幸喜が14代当主として活動している。菩提寺は東京・南青山浄土宗梅窓院

五男の幸高は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。六男の幸敬は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 岩城隆邦養子
  2. ^ 細川潤次郎三男
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ a b 青山幸宜”. 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). "014-03-19閲覧。
  5. ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
  6. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  7. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上、pp.8-9

出典[編集]

日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
郡上青山家初代
1884年 - 1930年
次代:
青山幸直