韋堅

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韋堅(い けん、? - 天宝五年(746年))は、玄宗期の官僚。運輸による功績で玄宗に重用された。李林甫と敵対し、政争に敗れる。配流中に自殺を命じられた上で、殺された。

経歴[編集]

京兆の万年県の出身。名門・韋氏の貴顕に生まれ、若くして官職についた。開元25年(737年)、長安令となり、その才幹で知れ渡る。この時から貴人と交わり、玄宗の意を探っていたと伝えられる。江淮からの租税の運輸(漕運)を行い、毎年、朝廷の倉を物資で満たした。そのため、玄宗から有能と判断された。

天宝元年(742年)、陝郡太守・水陸転運使に昇進した。渭水の南に運河を造り、東につききって永豊倉のところで合流するように工事した。この時、民衆から怨みの声があがったと伝えられる。天宝二年(743年)、玄宗が望春楼から見ている中で、数百艘の船に各郡の特産品を運輸させて観覧式を行った。多くの見学人が集まり、この光景を見て驚いたと伝えられる。この功により、玄宗に大いに賞された。

李林甫とは、同じく姜皎の娘を妻にしている関係で仲が良かった。しかし、韋堅の玄宗からの恩愛が日々強くなっていること、韋堅がさらなる昇進を望んだこと、李適之と仲が良かったこと、韋堅の妹が李林甫と敵視している太子・李亨の妃となっていることなどから、宰相となることを恐れた李林甫に憎まれた。天宝三載(744年)、御史中丞を兼任することになり、すぐに刑部尚書に昇進した。しかし、多くの使職ははずされ、楊慎矜が後任となった。

天宝五載(746年)、韋堅は皇甫惟明と夜遊びし、「ともに太子・李亨を立てて謀反を起こそうとした」と李林甫に讒言される。縉雲太守に左遷させられた。弟の韋蘭・韋芝が兄の無実を訴えたが、かえって玄宗のさらなる怒りを買い、韋堅は江夏員外別駕にまで降格させられる。李亨は恐れて妃と離婚することを上表した。さらに、韋堅の嶺南までの流罪が決まり、韋蘭・韋芝、息子の韋諒も流罪となり、韋堅は自殺を命じられることとなる。使者として来た羅希奭によって殺され、韋蘭・韋芝・韋諒も殺された。[1]

韋堅の部下であった人物も連座で流罪・降格となった。李林甫が韋堅の罪を探して、運輸を行っていた時の関係者を追求したため、牢獄はあふれ、罪人は船につながれることとなった。役所は懲罰・剥奪を止めず、裸のままで死ぬものが、李林甫が死ぬまで絶えなかったという。

脚注[編集]

  1. ^ 資治通鑑では死去年は天宝六年(747年)とする。

伝記資料[編集]