飯島秀雄

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飯島 秀雄
Hideo Iijima 1964.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県水戸市
生年月日 (1944-01-01) 1944年1月1日(74歳)
身長
体重
176 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 ドラフト9位
初出場 1969年4月13日
最終出場 1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ロッテオリオンズ (1972)
獲得メダル
男子 陸上競技
日本の旗 日本
ユニバーシアード
1965 ブダペスト 100m
アジア大会
1962 ジャカルタ 200m
1962 ジャカルタ 4×100mR
1966 バンコク 100m

飯島 秀雄(いいじま ひでお、1944年1月1日 - )は、日本の陸上短距離選手、元プロ野球選手外野手)。

走塁のスペシャリストとしてロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団した、元100メートル競走日本記録保持者。

来歴・人物[編集]

茨城県水戸市出身。水戸市立緑岡中学校時代は野球部だったが、3年生のときに足の速さを評価され、放送陸上大会の100mに出場して2位となる[1]。これを契機に茨城県立水戸農業高等学校に入学後、陸上部で短距離走の選手となる。その後、目黒高等学校(現・目黒学院高等学校)陸上部監督で水戸農業高校OBの大和田稔に素質を見出され転校。転校した年の秋の国民体育大会で10秒6を出して1964年の東京オリンピックの準候補選手に選ばれ、当時の100m走日本記録保持者、吉岡隆徳のコーチを受けることとなる[1]

陸上選手として[編集]

早稲田大学教育学部進学後は早稲田大学競走部に所属。しかし、練習は吉岡のメニューに従い、週末は立川市にあった(吉岡が所属する)リッカーの練習場に通っていた[1]。「ロケットスタート」の異名を取るスタートの速さで頭角を表し、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1を記録し、吉岡の持つ日本記録(10秒3、当時の世界タイ記録)を29年ぶりに更新した。しかし同年の東京オリンピックでは、第一次予選で予選最高タイムを出しながら、第二次予選でのゴール直後の転倒による影響から準決勝で敗退した。

早大卒業後は茨城県庁に入庁。1965年ユニバーシアードブダペスト)において追い風参考ながら10秒1で優勝[2]。前年の東京オリンピック3位であったカナダのハリー・ジェロームを破った。また、1966年の欧州遠征でも2回にわたり10秒1を記録した。しかし、1967年6月のヨーロッパ遠征で左足を負傷して手術を受けたため、オリンピックの候補・強化選手からははずされた[1]。またこの時期から吉岡との関係もぎくしゃくしたものになり、1968年6月のアメリカ遠征では「亀裂は決定的になった」という[1]。吉岡と訣別し、秋のメキシコオリンピックでメダル獲得を狙うも、またしても準決勝で力尽きた。ロケットスタートを見せながら、50~70m付近で肩の筋肉が硬直し、ストライドが広がり、体が上に跳ぶような状態に陥り、失速するケースが多く見られた。この理由として本人は、この頃からトラックが土からタータンに変わり、その反発力の違いに体が対応出来なかったためと述べている[3]

なお、メキシコオリンピックの準決勝でマークされた上記の記録は電気計時で10秒34であったが、公認されなかった。これは当時、公式タイムが手動計時によるものが有効とされており、現在のような電気計時による記録が国際陸上競技連盟によって公認されたのが1975年からだったことも影響しているものと考えられる。陸上競技マガジンが毎年春先に出版している記録集計号の中にも、日本歴代50傑の中で飯島の名前が登場する。そして過去に遡及して公式記録として公認との但し書きが付いていた。この歴代50傑の中で飯島の名前は2006年まで残っていた。

野球選手として[編集]

オリンピックの後は茨城県庁に勤務する一方で、「足を生かした仕事をしたい」と考えていたところ、知人から大沢伸夫(当時國學院大學硬式野球部監督)に話が行き、そこから大沢伸夫の実弟で東京オリオンズ(1969年よりロッテオリオンズ)コーチだった大沢啓二を介して永田雅一オーナーに話がつながる[4]。元々は走塁コーチでという話であったが、飯島の知らぬうちに選手契約となっていた[3]。その結果、永田の肝煎りで1968年のドラフト9位でオリオンズに指名され入団する[4]。背番号は当時年間盗塁数の日本記録だった85を上回るようにとの期待を込めて88に決定[4]

後年、本人はロッテ入団について「気がついたら辞退できない状況になっていて、あの時は周りの人に怒られたなぁ。なにせ、いきなり陸上選手がプロ野球選手になったんだからね」と語っている。一方、早大の外の人間である吉岡の指導を受けたことで、早大卒業時にOBが就職の世話をしなかったことに遠因があるとする早大競走部後輩の証言もある[1]

球団は飯島の足に5000万円の傷害保険をかけた[5]。飯島には1万8000円の特製スパイク(カンガルーの皮革を使用)が支給され、開幕前には大沢啓二がつききりで指導した[5]1969年のオープン戦では10試合目で初めて盗塁に成功した(それまでに盗塁刺を4回経験している)[5]

当時のロッテは客の不入りに苦しんでいたが、「世界初の代走専門選手」である飯島のデビュー戦には通常の4倍の観客が訪れた[4]。開幕2日目となる対南海ホークス戦の9回裏、安打で一塁に出た山崎裕之の代走で出場[5]。この時の南海の捕手は野村克也であったが、飯島は投球がキャッチャーミットに収まってからスタートし盗塁を成功させた[6]。この試合で初盗塁を決めたことで飯島の人気は決定的になり、ロッテの本拠地・東京スタジアムの集客は前年比の倍になった。しかし、1971年までの3年間で117回代走起用され、通算盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5、得点は46という成績に終わった(盗塁の内訳は二盗17・三盗4・本盗2)[5][7]読売ジャイアンツと対戦した1970年の日本シリーズには3試合で代走起用され、2得点を記録[4]。第4戦の7回には一塁で牽制死しているが、飯島によるとその直前に一塁手の王貞治から「この場面で牽制はない」と言われたという(王は1992年の書籍で記憶にないと述べている)[1][4]

1971年6月20日の対西鉄ライオンズ戦(一塁走者として出場後、四球で二塁進塁後に捕手の後逸を見て三塁にスタートしたが途中で引き返そうとしてアウト)が公式戦最後の出場となった[5]。登録上のポジションは外野手であったが、プロ生活3年間を通じて1軍では一度も打席および守備につくことはなかった[5]

前記の公式戦最終出場直後の1971年6月25日、イースタン・リーグ(2軍)のヤクルト戦で(代走起用後に打順が一巡したため)1度だけ打席に立ち、3球三振を喫している[4][5][8]。また、2軍戦では7試合で外野の守備につき、刺殺補殺を1つずつ記録している[5]

飯島と同期でプロ野球に入り盗塁の日本プロ野球記録(通算・シーズン)保持者となった福本豊阪急ブレーブス)は、当時の飯島を「初めてグラウンドで対戦した時はそのスピードにたまげた」と引退後の著書に記し(福本の100mベストタイムは11秒2)、飯島が期待ほど盗塁できなかった理由について、スタートのタイミングが「音」で伝えられる陸上競技に対し、野球の盗塁では投手の牽制球や投球の「リズム」を「『目』を使って」自分で計る必要がある違いを指摘している[9]宇佐美徹也は、野球に対する知識の不足[10]に加え、初年度に7度の故障で3か月も出場できなかったことを挙げて「脚がもろ過ぎて野球という激しい競技には不向き」と評した[5]

一方で、飯島を塁に置いた時の通算チーム打率は.424、出塁率.491(151打数64安打、8本塁打、四死球20)という記録が残っており、宇佐美徹也は「飯島の脚に必要以上に気をとられた相手投手が、その分だけ打者に力を注ぎきれなかったとすれば、代走屋飯島に対する評価もまた変わってくる」と記している[5]

引退後[編集]

現役引退後、1年間ランニングコーチを務めた後退団。これは永田雅一がオリオンズの経営から手を引き、ロッテが名実共に球団の持ち主に代わったあとに契約を結ばないことを通告されたという[4]。しかし、就職した不動産会社がすぐに倒産する[1]。その後、いくつかの職を経て、1979年に故郷の水戸市内で「飯島運動具店」を開業した。前年の1978年に陸上界に復帰して茨城県陸上競技協会の公認審判員・スターターとなった[1]

1984年3月17日、日本陸連はメキシコオリンピックでの記録を16年ぶりに公認日本記録とした(その時点での電気計時の日本記録は清水禎宏の10秒40だった)。同年5月5日、かつての師であった吉岡が逝去。その翌日に不破弘樹が飯島と並ぶ日本タイ記録を叩き出すなど、飯島の名前が出る機会が多かった。

運動具店経営の傍ら、陸上競技のスターターを1991年頃まで務めていた。1991年の世界陸上選手権の男子100m決勝で、カール・ルイスが9秒86の世界記録を樹立し優勝した際のスターターでもある。

現在も、茨城県水戸市郊外にて「飯島運動具店」を営んでいる[11]2017年8月27日放送の「消えた天才 一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP」にて、本人曰く約30年ぶりに取材を受けた。その際、陸上の指導者にならなかった理由を「自分の走法は土のトラック専用で、メキシコ五輪から導入された合成ゴムのトラックには合わないから」と述べている[11]。また、当初はランニングコーチとして就任するはずだったのに、自分が知らない間に選手として話が進んでいたこと、また結果が出せなかったので、プロ野球入りしたことを後悔していると告白している[11]

詳細情報[編集]

陸上[編集]

主要国際大会の成績[編集]

大会 場所 種目 結果 記録 備考
1962 アジア大会 ジャカルタ 100m 4位 10秒7
200m 2位 21秒5
4x100mR 2位 41秒3 (4走)
1963 ユニバーシアード ポルト・アレグレ 4x100mR 4位 42秒3 (4走) 予選:41秒0(日本記録)
1964 オリンピック 東京 100m 準決勝 10秒6 2組7着
200m 1次予選 DNS
4x100mR 準決勝 40秒6 (1走) 2組8着
1965 ユニバーシアード ブダペスト 100m 優勝 10秒1 (+5.0)
4x100mR 決勝 DQ (1走)
1966 アジア大会 バンコク 100m 3位 10秒5
1968 オリンピック メキシコシティ 100m 準決勝 10秒3 1組8着
4x100mR 予選 40秒0 (4走) 日本記録、2組6着

自己ベスト[編集]

種目 計時 記録 風速 年月日 場所 備考
100m 手動 10秒1 1964年6月14日 ドイツの旗 マインツ 元日本記録
1966年6月26日 イギリスの旗 ベルリン 元日本記録
1966年世界ランク1位
1966年7月2日 ウクライナの旗 オデッサ
電動 10秒34 +1.6m/s 1968年10月14日 メキシコの旗 メキシコシティ 元日本記録

野球[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 ロッテ 61 0 0 26 0 0 0 0 0 0 10 8 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1970 50 0 0 19 0 0 0 0 0 0 12 9 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1971 6 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:3年 117 0 0 46 0 0 0 0 0 0 23 17 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----

記録[編集]

背番号[編集]

  • 88 (1969年 - 1971年)
  • 61 (1972年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 朝日新聞社会部『人生それから』朝日新聞社(ND Books)、1992年、p55 - p65(執筆は黒沢充記者)
  2. ^ 2013年大会終了時点で、日本人唯一のユニバーシアード100m(男女通じて)金メダリストである。また、2009年大会の男子400mで金丸祐三が金メダルを獲得するまで、ユニバーシアード短距離個人種目(100m、200m、400m)における日本人唯一の金メダリストだった
  3. ^ a b 53年前、「100m9秒台に迫った」日本人の真実(3/3ページ) - 東洋経済オンライン(2017年8月26日)
  4. ^ a b c d e f g h “日めくりプロ野球4月【4月13日】1969年(昭44) 世界初の代走屋・飯島秀雄 デビュー戦で初盗塁”. スポーツニッポン. (2008年4月7日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0804/kiji/K20080407Z00001930.html 2018年2月17日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k 宇佐美、1993年、pp.716 - 717
  6. ^ 53年前、「100m9秒台に迫った」日本人の真実(2/3ページ) - 東洋経済オンライン(2017年8月26日)
  7. ^ 盗塁成功率は23/40で.575。通常、盗塁王を取るクラスの選手だと7割以上である(参考:失敗しないので…盗塁成功率が高かった選手は? - ベースボールキング(2017年11月19日)。
  8. ^ 相手投手の名前について、宇佐美徹也は成田昇、2008年のスポーツニッポン記事は松村憲章としている。
  9. ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年、pp.28 - 29
  10. ^ 「大事な場面で思いもかけないチョンボ的プレーが頻発」と記している。
  11. ^ a b c “53年前、「100m9秒台に迫った」日本人の真実”. 東洋経済オンライン (東洋経済新報社). (2017年8月26日). http://toyokeizai.net/articles/-/185844?page=3 

参考文献[編集]

  • 「オリンピック」という人生『週刊新潮』2008年8月14日・21日夏季特大号
  • 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑 <昭和11年 - 平成4年>』講談社、1993年

関連項目[編集]