馬場元子

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馬場 元子(ばば もとこ、1940年1月2日 - 2018年4月14日)は、ジャイアント馬場夫人。兵庫県明石市出身。旧姓は伊藤。

全日本プロレス取締役、代表取締役社長、オーナーの他、馬場の肖像権管理会社・ミスタービィの代表取締役、全日本プロレス・イノベーション(オールジャパン・プロレスリング出資会社)取締役などを歴任した。

来歴[編集]

兵庫の旧家で育ち、15歳の時に自宅近所でキャンプを行っていた読売ジャイアンツ投手・馬場正平と出会う。正平の野球選手時代を知る数少ない人物の一人でもある。

以降、アメリカに留学していた際に馬場もプロレスラーとして遠征していたことから交際が始まり、1966年に婚約。だが、その事実は一般ファンには、馬場自身が1982年に結婚生活を送っていることを公表するまで、長く伏せられていた。子供はいない。

馬場夫妻が経営するジャイアント・サービスを通じてグッズ販売を独占し、全日本プロレスとは別会計で同社に入るようにしていた。そのため選手にロイヤリティは入らなかった。

1999年、ジャイアント馬場と死別。三沢光晴が後任社長となった新役員体制で全日本プロレス取締役となる。しかし、株式は元子が保有していたため、三沢は思ったように舵が取れず、改革を訴える三沢に対し、度々反発していた。

2000年、三沢以下所属選手・スタッフ40名以上が全日本を退社しプロレスリング・ノアを立ち上げたことにより、選手・スタッフの大量離脱で苦境に立たされた全日本プロレスの代表取締役社長に元子は就任する。この時全日本に残った選手は川田利明渕正信の日本人2人のほかは、留学生の太陽ケアのみであり、馬場存命時にSWSへ移籍した経緯がある天龍源一郎を復帰させるなど苦しいやりくりを強いられた。その後、新日本プロレスとの対抗戦を経て武藤敬司が全日本に移籍し、その後元子に代わり社長となったが、元子オーナー体制は変わらなかった。

団体そのものの存続に危機感を抱いた和田京平らは、川田、渕、和田のプロパー3人の連名で「武藤社長への株式譲渡を求める。拒否された場合は全選手と社員で全日本プロレスを離脱する」という主旨の文書を元子に提出。これを受け、元子は保有する全株式を武藤に無償譲渡し、オーナーを退いた。

2009年6月、リング禍で死去した三沢の葬儀に参列し公の場に久々に姿を表した。

2014年7月、秋山準が社長となって新体制を敷いた全日本プロレス・イノベーションの取締役に就任。役員として再び全日本を支えることとなり、同年10月22日後楽園ホール大会で約12年ぶりにリング上から挨拶した[1]。翌年、役職から退いた。

2016年4月20日、が設立した新団体「王道」に出資し、後楽園ホールの旗揚げ戦に登場。ジャイアント馬場のイメージカラーである赤のジャケットを着用し、記者の質問に「耳が遠くなって何を言ってるかよくわからないのよ」と苦笑していた[2]

2018年4月14日21時9分、肝硬変のため東京都内の施設で死去[3]。78歳没。戒名は、「顕徳院法栄妙元清大姉(けいとくいんほうえいみょうげんしょうたいし)」。元子の遺骨は馬場の墓所である明石市の本松寺に共に葬られることとなった[4]

ジャイアント・サービス自体も、元子が死去する4日前である2018年4月10日に解散を決議し、同年10月18日に東京地方裁判所から特別清算開始決定を受けた[5]。ミスタービィも、2019年2月20日に東京地方裁判所から破産手続開始決定を受けた[6]

著作物[編集]

著書[編集]

  • 『ネェネェ馬場さん』 2000年 講談社 ISBN 4-06-210042-8

監修書[編集]

  • 『王者の魂』 2005年 駒草出版 ISBN 4-906082-93-9
  • 『ジャイアント馬場王道ミュージアム』 構成:市瀬英俊 2005年 エンターブレイン ISBN 4-7577-2186-2

脚注[編集]

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