高元簡

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高 元簡(こう げんかん、生没年不詳)は、中国代にいたとされる人物。

出自・係累[編集]

北斉の蘭陵王高長恭の孫とされる。父の名は不明(高長恭の子、高元簡の父と仮定すれば、姓が「高」であることは確実だが、と字は明らかになっていない) 、母は趙氏という。北斉の開祖で高長恭の祖父にあたる高歓は男子は15人、女子は9人という合計24人の子女がいたが、残っている記録を見る限り、多くは早世や北斉内部での権力争いによる犠牲、そして北周の第3代皇帝武帝によって根絶やしにされた影響もあり、子や孫、もしくは曾孫の代で系譜が途絶えており、高元簡は高歓直系の数少ないの玄孫の一人である(また、高長恭の叔父で北斉の第4代皇帝武成帝の第4子の高廓の子孫が、高君緒(高廓の子)、高玄景(高君緒の子)、高元思(高玄景の子)と4代存続していることが確認できる。高長恭と高廓が従兄弟、高元簡の父と高君緒が又従兄弟。高玄景が高元簡と又従兄弟の子供同士でこの世代が高歓の玄孫となる。また、高玄景の子の高元思は記録を見る限り、高歓直系の唯一の来孫である。

龍門石窟[編集]

上記の出自とされるものは、1999年に2人の考古学者が龍門石窟で発見された造像銘に、高元簡が永隆2年(681年)に亡母趙氏の供養のため、龍門石窟の千仏洞に地蔵菩薩像と観音像を納めたという記録がなされていることが根拠とされている。

高元簡の存在は、高長恭に子孫が(少なくとも唐の高宗の時代まで)生き残っていたことの証とされている。