高句麗論争

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高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

高句麗論争(こうくりろんそう)は、かつて朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争。また、韓国・北朝鮮の研究者は、698年に建国した渤海の支配層が高句麗人であり、そのため渤海は高句麗の継承国であり、北の渤海・南の新羅が鼎立した南北国時代から、高麗によってはじめて朝鮮は統一したと主張しており[1]、したがって、韓国・北朝鮮の研究者が称しているところの高句麗の継承国の渤海が、「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという論争もおきている。

日本での高句麗と渤海についての見方[編集]

河上洋によると、高句麗は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であったという[2]

矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを扶余の系統に位置づけた[3]。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう。」と述べる[4]。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる[5]。不毛な論争を止揚するために、民族意識・領域意識が不変のものではなく、変わり行くものであり、一国史的観点からの脱却を唱える。

高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する[6]。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人女真人にも受け継がれていた[7]。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる[8]。19世紀後半になると朝鮮人が間島沿海州などに移り住むようになり、朝鮮がに対して間島の領有権を主張する[9]1885年1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった[10]大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した[11]1909年の日清間における間島協約1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず[12]、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による「高句麗論争」の素地になった[13]

外山軍治礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民混血」が生じたとしている[14]

三国史記』巻46巻崔致遠伝では、以下の記述がある。

伏聞 東海之外有三國 其名馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也

古畑徹によると、馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅とあり三韓を高句麗・百済・新羅に対応させる歴史意識が見られるが、「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識であると指摘している[15]。また古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[16]。ちなみに古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[16]

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[17]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[17]

金光林井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている[18][19]。また金は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる[20]。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする[20]

武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった。」と記述している[21]

松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した。」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり」と記述している[22]

奈良本辰也編集『日本歴史大辞典 第19巻』河出書房、40頁、1959年には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた。」との記述がある。

藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する」「其文化は六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である。」と記述している[23]

夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました。」と記述している[24]

南出喜久治は、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている[25]

室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている[26]

倉山満は、「満州で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満州を支配した東アジア最大の国家だった(申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』p4)」とお国自慢をしているが、現在の北朝鮮の領域の先祖であるかつての朝鮮北部と満州を支配した民族がKorea民族なのかは疑問であり、高句麗は朝鮮北部と満州を領域としており、満・韓・漢のどの民族であるかなど完全に区切ることはできず、「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満州人です。より正確に言えば、満州から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも純粋Korea人でないことだけは確かです。中韓の間で、高句麗は中国か朝鮮かという歴史論争がありますが、どちらでもないが正解です。今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだという思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはなりません。」と批判している[27]。また渤海を「渤海(のちの満州人)」として、「は渤海(のちの満州人)との対立と新羅の謀反で日本どころではなくなります。ついでに言うと、韓国人はこの渤海の歴史も韓民族の歴史に組み込んでいます。渤海の侵略を防いだり、渤海の栄光を誇ったり、忙しいのが韓国人の歴史観です。」と批判している[28]

横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[29]。戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。また戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[30][31]

東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、高句麗が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない、と述べている[32]

現在の日本の教科書では、高句麗は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われるが[33]、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という記述の教科書もある[34]

田中俊明によると、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・の諸民族が併存しているの様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識も存在しなかったという。特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であったという[35]。また、中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなかったという。一方、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであるという[36]

高句麗[編集]

  • シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
  • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
  • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
  • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
  • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
  • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
  • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
  • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
  • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
  • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
  • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
  • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
  • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
  • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
  • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
  • 長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
  • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
  • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
  • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
  • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
  • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
  • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
  • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
  • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
  • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
  • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
  • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
  • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
  • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
  • 外山軍治礪波護『東洋の歴史5』(1967年、人物往来社)p20「高句麗を建てたのは、古くから満州東部から朝鮮半島の北東部に移り住んだ貊族の一種である。」「貊族はツングース系統に属する」
  • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
  • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
  • 山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」
  • 山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀~紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国」

渤海[編集]

  • 森安孝夫『日本大百科全書』「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家」
  • 和田萃『日本史事典』(1990年、東京創元社)「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」
  • 藤本和貴夫『日本大百科全書』「【シベリア】7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた」
  • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
  • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
  • 『世界史用語集』(2014年、山川出版社)「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」
  • 菊池俊彦『日本大百科全書』「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派」
  • 広辞苑「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
  • 大辞泉「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
  • 大辞泉「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」
  • 大辞林「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」
  • 安藤達朗『いっきに学び直す日本史』(2016年、東洋経済新報社)「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた。」
  • 田村実造『中國征服王朝の研究』第1巻(1964年、東洋史硏究會)「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである。」
  • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
  • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
  • 鈴木俊『東洋史要説』(1960年、吉川弘文館)p176「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ」
  • 中国研究所『中国年鑑』(2002年、大修館書店)p393「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある。靺鞨族により創建された渤海国」
  • 今西正雄『民族文化史概説』(1943年、全國書房)「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族」
  • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」

第二次世界大戦前の日本での研究[編集]

戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙、松井等、稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部である(ただし、高句麗は朝鮮史の一部でもある)という認識をしていた[37]今西龍は、「而して特に注意すべきは檀君は本来 、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず[38]」と述べている。また、稲葉岩吉は「兎に角三国時代の三分の二は満州民族が此の領土に移住して当時の文化を植付けて居ったということは争われない[39]」と述べている。朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない[40]。 その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史の一部と認識されていたためである[41]。 朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[42]。 今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[43]。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[44]。執筆した稲葉岩吉は、高句麗人や渤海人や女真人といったツングース系満州民族である高句麗と百済を韓族である新羅が統一したと認識していた[45][46]

脚注[編集]

  1. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年、ISBN 978-4000108294 p156
  2. ^ 河上洋 『渤海の地方統治體制 : 一つの試論として』 東洋史研究、1983年9月p5
  3. ^ 中野耕太 2014, p. 126
  4. ^ 矢木毅 2012, pp. 70
  5. ^ 矢木毅 2012, pp. 260
  6. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  7. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  8. ^ 矢木毅 2012, pp. 110
  9. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  10. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  11. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  12. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  13. ^ 中野耕太 2014, p. 127
  14. ^ 外山軍治礪波護「隋唐世界帝国」『東洋の歴史5』人物往来社1967年、p19-p20
  15. ^ 古畑徹後期新羅・渤海の統合意識と境域観朝鮮史研究会 36巻、1988年p34
  16. ^ a b 古畑徹 (2010年). “高句麗・渤海をめぐる中国・韓国の「歴史論争」克服のための基礎的研究 (PDF)”. 科学研究費助成事業 研究成果報告書. 2017年6月25日閲覧。
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  18. ^ 高句麗史の帰属をめぐる韓国・朝鮮と中国の論争 新潟産業大学人文学部起要16号
  19. ^ 井上直樹『帝国日本と満鮮史』塙書房 2013/02 ISBN 978-4827331165 p229₋p230「このことは高句麗史研究において、現在の国境ではなく、より大きな観点から高句麗史を理解することが必要であることを端的に示しているといえる。それならば、問題を多数内包しているものの、中国東北地方と朝鮮半島を区別することなく、一体的な歴史地理的空間として高句麗史を把握しようとする満鮮史的視座は、高句麗の史的展開過程を考究する上で、有効な視角の一つとおもわれる。それは高句麗の動向を今日の国家という枠組みを超えて巨視的に理解しようとする試みの一つでもある。今日の高句麗史研究が国境を基準とする一国史的史観にとらわれ論及された結果、冒頭で示したようにさまざまな問題を惹起していることを想起すれば、満鮮史的視座は一国史的史観を克服するものとして、再度、考究される余地があってもよいのではないかと考えられるのである。」
  20. ^ a b 金光林「中韓両国の歴史・文化摩擦に対する文明史的考察」『新潟産業大学人文学部紀要』No.20、2008年10月
  21. ^ 武光誠『真説日本古代史』PHP研究所 2013年、7頁
  22. ^ 松本雅明著作集編集委員会『松本雅明著作集8』弘生書林、1988年、32頁、33頁、160頁
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  27. ^ 倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』、扶桑社2013年、p18、p28、p23
  28. ^ 倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』、扶桑社2013年、p26
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  31. ^ 古畑徹「戦後日本におけ る渤海史の歴史的枠組みに関する史学史的考察」『東北大学 東洋史論集』
  32. ^ [1]
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  35. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年、ISBN 978-4000108294 p152
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  41. ^ 新潟大学『現代社会文化研究No. 39』
  42. ^ 第1回朝鮮史編纂委員会 『朝鮮史編修会事業概要』
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  44. ^ 稲葉岩吉・矢野仁一『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』
  45. ^ 『満鮮不可分の史的考察』
  46. ^ 「朝鮮の領土問題民族問題及び鮮満文化関係に就て(二)―鮮満関係史の一節―」『朝鮮』 第149号

参考文献[編集]

関連項目[編集]