高表仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 表仁(こう ひょうじん、生没年不詳)は、7世紀前半の中国代の官吏。代の政治家・高熲の子。新州(現在の中華人民共和国広東省新興県)の刺史。遣唐使の送使として倭国(日本)を訪問している。

記録[編集]

日本書紀』によると、舒明天皇4年(632年)8月に遣唐使の犬上御田耜や僧新羅の送使とともに対馬に泊まっている。

同10月4日、難波津へ到着。そこで大伴長徳を派遣し、船32艘、鼓、笛、旗幟(はた)で飾られた船団とともに、江口(淀川の河口)で迎え、以下のように告げたという。

「天子(もろこしのみかど)の命(おほみこと)のたまへる使(つかひ)、天皇の朝(みかど)に到(まういた)れりと聞きて迎へしむ」

(唐の天子の遣わされたお使いが、天皇の朝廷においでになったと聞き、お迎えさせます)訳:宇治谷孟

高表仁は以下のように答えた、という。

「風寒(すさま)じき日(ころ)に、船艘(ふね)を飾整(よそ)ひて、迎へ賜ふこと、歓(よろこ)び愧(かしこま)る」

(風の吹きすさぶこのような日に、船を装ってお迎えいただきましたこと、うれしくまた恐縮に存じます)訳:宇治谷孟

そこで、難波吉士一族や、大河内氏らを遣わして、館(むろつみ)で歓待し、神酒を与えた、という。

同5年1月26日、吉士一族に見送られて、高表仁らは帰国した。

『書紀』の記録は以上であるが、『旧唐書』の貞観5年の記述では、

また新州の刺使高表仁を遣はし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠(すいゑん)(=遠国への外交的手腕)の才なく、王子と礼を争ひ、朝命を宣べずして還る。二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。

(新州の州の長官、高表仁を遣わし、はたじるしを持って行き、これをいたわりなつけさせようとした。ところが高表仁には遠国を綏撫させる才能がなく、王子と礼を争い、国書を読み上げることなく帰国してしまった。二十二年(648年大化4年))に至り、倭国王はさらに新羅の来た使者にことづけて上表文を届け、皇帝の機嫌をうかがいあいさつをしにきた)[1]

となっている。

新唐書』の記述でも同様に、

新州刺史の高仁表を遣はして往きて諭(さと)さしむるも、王と礼を争ひて平(たひ)らかならず、天子の命を宣することを肯(がへん)ぜずして還る。之を久しくして更(あらた)めて新羅の使者に附して書を上(たてまつ)

(新州刺史の高仁表を遣わし、日本国王に勅諭を伝えさせようとしたが、高は日本国王と儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して帰国した。しばらくして、日本は改めて新羅の使者に託して上表文を送呈してきた)[2]

となっている。

以上のように、倭国と唐の最初の交渉は決裂に終わっている。これらの記事から窺われることは、倭国が唐に冊封を求めず、朝鮮半島における優位を主張して、唐の使節と対立したことだと言われており、あるいは儀式の場における唐使と倭国の上下関係が争われただけだったのではないか、ゆえに、帰国後、高表仁の所業は非難されているのではないか、と榎本淳一は『新唐書』における高句麗への遣使の例を引いて説明している。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『旧唐書』巻一百九十九上、東夷伝倭国条
  2. ^ 『新唐書』巻二百二十、東夷伝、日本条

参考文献[編集]

  • 『日本書紀』(四)岩波文庫、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝 -中国正史日本伝(2)』石原道博:編訳、岩波文庫、1956年
  • 『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注、藤堂明保竹田晃、影山輝國、講談社学術文庫、2010年
  • 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
  • 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』倉本一宏、講談社現代新書、2017年
  • 『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』河上麻由子、中公新書、2019年

関連項目[編集]