魏子建

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魏 子建(ぎ しけん、471年 - 533年)は、北魏官僚政治家敬忠本貫鉅鹿郡下曲陽県

経歴[編集]

魏悦の子として生まれた。奉朝請を初任とし、太尉従事中郎に累進した。かつて506年正始3年)に武興の楊紹先が平定されると、武興に北魏の鎮が立てられて、まもなく東益州と改称された。しかし北魏の武興鎮将や東益州刺史たちは氐族の支持を得られず、その反抗が続いて、情勢は安定しなかった。そこで子建が東益州刺史に任じられると、氐族の支持を得て、武興の治安は落ち着きを見せるようになった。

524年正光5年)6月、秦州莫折大提が反乱を起こすと、南秦州の韓祖香・張長命らが呼応して叛いた。莫折太提はまもなく死去し、子の莫折念生が代わって立った。子建は反乱に加担した諸城の人々の罪を免除するよう上書し、孝明帝の許可を得て、反乱軍の分断を図った。7月、莫折念生がその都督の楊伯年・樊元・張朗らに仇鳩・河池の2戍を攻撃させると、子建は将軍の尹祥・黎叔和を派遣して撃破し、樊元を斬首した。8月、莫折念生がその都督の竇双に盤頭郡を攻撃させると、子建は将軍の竇念祖を派遣して、竇双を斬った。子建は東益州刺史のまま尚書を兼ね、行台となり、梁州巴州益州・東益州・秦州・南秦州の統制を委ねられた。525年孝昌元年)、莫折念生がその都督の楊鮓・梁下弁・姜斉らに仇池郡城を攻撃させると、子建は将軍の盛遷を派遣してこれを撃破し、梁下弁・姜斉らを斬首した。

子建はたびたび洛陽への帰還を求めたため、後に唐永が代わって東益州刺史として派遣された。子建の離任は州内の氐族たちに惜しまれた。まもなく氐族は反乱を起こし、唐永を攻撃した。唐永は州城を捨てて逃走し、楊紹先が武興に復帰したため、北魏の東益州統治は終焉を迎えた。

子建は洛陽帰還後まもなく、散騎常侍・衛尉卿に任じられた。529年永安2年)、元顥南朝梁の兵を借りて洛陽に入り、孝荘帝が河内に避難すると、子建は元顥に仕えるのを潔しとせず、洛南に家を構え、病気を理由に隠退を願い出た。右光禄大夫の位を受けて、隠退を認められた。後に左光禄大夫に進み、散騎常侍・驃騎大将軍の位を加えられた。533年永熙2年)春、洛陽孝義里の家で死去した。享年は63。儀同三司定州刺史の位を追贈された。は文静といった。

子女[編集]

伝記資料[編集]

  • 魏書』巻104 列伝第92
  • 北史』巻56 列伝第44