魏益三

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魏益三
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プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1964年
Flag of the People's Republic of China.svg 中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 直隷省正定府藁城県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 魏益三
簡体字 魏益三
拼音 Wèi Yìsān
和名表記: ぎ えきさん
発音転記: ウェイ イーサン
ラテン字 Wei I-san
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魏 益三(ぎ えきさん)は中華民国の軍人。奉天派国民軍直隷派と渡り歩き、最後は国民革命軍に加わった人物である。友仁

事跡[編集]

1914年民国3年)11月、保定陸軍軍官学校第1期砲兵科を卒業。1917年(民国6年)、北京陸軍大学第5期に入学する。その後、保定陸軍軍官学校で教官となり、さらに西北辺防軍で軍務についた。1921年(民国10年)、東北に赴き、東北陸軍第3混成旅参謀長に任ぜられる。1924年(民国13年)、第27師参謀長となった。[1][2]

1925年(民国14年)11月、郭松齢に従って張作霖打倒の兵をあげ、東北国民軍第5軍軍長兼砲兵司令となる。翌月、郭が敗死すると、魏益三は馮玉祥率いる国民軍に合流し、国民軍第4軍軍長に任ぜられた。しかし1926年(民国15年)3月に国民軍が敗北すると、魏は国民軍を離れ、自軍を「正義軍」と自称する。[3]その後、呉佩孚に降伏し、14省討賊聯軍第4軍総司令に任ぜられた。1927年(民国16年)初めに、靳雲鶚率いる河南保衛軍に加わり、副司令兼第2方面軍軍長となる。[4][2]

同年末、魏益三は靳雲鶚に従い国民政府側に易幟する。その後蒋介石による再編を受け入れ、魏は国民革命軍第30軍軍長、国民革命軍第4集団軍総司令部総参議に任ぜられた。1928年(民国17年)の第2次北伐に参加し、第32軍軍長に任命されている。同年5月、軍事委員会委員にも任ぜられた。1930年(民国19年)3月、軍事参議院参議となる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与された。1938年(民国27年)3月、軍事参議院諮議となる。1944年(民国33年)、軍政部栄誉軍人総管理処処長に任ぜられた。[4][2]このほか、第11戦区長官部顧問、国防部中将部員などを歴任している。[5]

国共内戦末期に、魏益三は雲南省で何らかの職務に就いていた模様である。しかし1949年(民国38年)12月、雲南省政府主席盧漢が起義(反国民党蜂起)を決行した際に、魏は盧に捕縛されてしまった。[2]その後釈放され、中華人民共和国北京市人民委員会専員などを歴任した。1964年、死去。享年81。[5]

著作[編集]

  • 郭松齡和奉軍的矛盾 

[編集]

  1. ^ 徐主編(2007)、2689-2690頁。
  2. ^ a b c d 劉主編(2005)、2463頁。
  3. ^ 郭主編(1990)、408頁によると、このときに魏は山西省閻錫山に降伏した、とある。
  4. ^ a b 徐主編(2007)、2690頁。
  5. ^ a b 北京市人民政府参事室ホームページ。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
  • 参事紹介「魏益三」北京市人民政府参事室ホームページ  ※2012年6月現在リンク切れ
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。