鶴澤清六

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鶴澤 清六(つるさわ せいろく)は、文楽義太夫節三味線方の名跡

初代[編集]

1824年 - 1878年5月24日)本名は萬屋清六。

大坂の生まれで、1828年2代目鶴澤清七の門下で初代鶴澤徳太郎で初舞台。1836年8月に清六と改名竹本大隅太夫、竹本勢見太夫の相三味線を務める。 1846年1月江戸へ行き結城座、1863年3月に帰坂のちに座摩社内の芝居を最後に引退したが1873年11月に竹本山四朗一座で初代豊竹古靭太夫の相三味線を務めたのをきっかけで復帰。 1876年9月に引退。

2代目[編集]

1838年 - 1901年12月21日)本名は石井平治郎。幼名を石井福造。

大阪の生まれ、1856年に初代の門下で鶴澤六三郎、安政時代には江戸、1866年に六兵衛、明治3年に3代目鶴澤徳太郎と改名。1880年9月に2代目鶴澤清六を襲名。1881年ふたたび江戸。「蛎殻町師匠」の称される江戸末期の名人。

3代目[編集]

1868年9月 - 1922年1月19日)本名は田中福太郎。

静岡県の生まれ、蕎麦屋の三男で最初は長唄の修行をしたが、15歳で上方に出て1885年1月に2代目鶴澤鶴太郎に入門し福太郎。翌年御霊文楽座が初舞台。師没後の1887年1月に師名を相続し3代目鶴澤鶴太郎を襲名。1893年1月に3代目鶴澤叶を襲名。1903年9月に3代目鶴澤清六を襲名。最初は3代目竹本大隅太夫の相三味線を務める。晩年豊竹山城少掾の相三味線を務めた。時代物、世話物の名人。

通称「塩町の師匠」といわれる。

4代目[編集]

4代目鶴澤清六

1889年2月7日 - 1960年5月8日)本名は佐藤正哉。

東京都四谷の生まれ、11歳の頃から鵜澤小庄の手解きを受け、1902年に鶴澤友松の門下になり鶴澤政二郎の名で初舞台。友松廃業後は3代目に師事し1912年に5代目鶴澤徳太郎を襲名。この頃から7代目竹本綱太夫の養子となる。近松座で5代目竹本錣太夫を弾き、1914年文楽座に入る。1923年9月に4代目鶴澤清六を襲名し豊竹山城少掾の相三味線を務める。1949年に豊竹山城少掾と絶縁。1952年に文楽座に復帰し豊竹松太夫の相三味線となった。

1950年日本芸術院賞を受賞[1]1955年重要無形文化財

NHKのドラマにもなった有吉佐和子一の糸」のモデルとされる。

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日新聞』1950年4月1日(東京本社発行)朝刊、2頁。