黒田継高
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![]() 黒田継高像(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代 |
生誕 | 元禄16年8月11日(1703年9月21日) |
死没 | 安永4年6月17日(1775年7月14日) |
改名 | 菊千代(幼名)、長好、継高 |
別名 | 官兵衛(通称) |
戒名 | 功崇院章山道善 |
墓所 | 崇福寺(福岡県福岡市) |
官位 | 従四位下左近衛権少将、筑前守、図書頭 |
主君 | 徳川家宣、家継、吉宗、家重、家治 |
藩 | 筑前福岡藩主 |
氏族 | 黒田氏 |
父母 | 父:黒田長清、母:小笠原長勝次女・定香院 |
兄弟 | 継高、利姫(円宗院、佐竹義峯正室) |
妻 |
正室:幸姫(黒田宣政養女) 側室:田中氏、三隅氏、小寺氏、岸原氏、三原氏、鷲尾氏など |
子 |
重政、春千代(2男)、宮内(3男)、長経、藤子(池田宗政正室)、為姫(酒井忠温正室)、娘(久松松平定邦正室)、正姫(黒田長邦正室)、清子(立花鑑通正室)、麻姫(南部利謹正室)、代々姫(広橋伊光室)、厚姫(醍醐冬香婚約者) 養子:長泰[1]、治之 (一橋宗尹の五男) |
黒田 継高(くろだ つぐたか)は、筑前福岡藩の第6代藩主。藩祖黒田孝高、初代黒田長政の血統最後の筑前福岡藩主となった。
生涯[編集]
元禄16年(1703年)、筑前直方藩主・黒田長清の長男として誕生した。幼名は菊千代、のち長好(ながよし)と名乗る。正徳4年(1714年)4月23日、宗家であり従兄にあたる福岡藩主黒田宣政の養嗣子となった。同年5月1日、7代将軍徳川家継に御目見し、同年12月1日に将軍家継の前で元服、その偏諱を受けて継高に改名した[2]。従四位下・筑前守に叙任し、松平姓を下賜される[3]。後に侍従、次いで左少将に任官した。享保4年(1719年)11月22日、養父宣政の隠居により家督を相続する。享保5年(1720年)4月15日、実父の長清が死去した。長清には継高以外に男子がなかったため、これにともなって直方藩領は宗家に返還・編入される形で継高のものとなった。歴代福岡藩主の中で最も長い50年もの間、藩主を勤めた。
病弱な養父とは対照的に非常に頑健で精力的であり、吉田栄年(よしだ まさとし)・保年(やすとし)父子[4]を登用して藩政改革にも積極的に取り組んだ。運上銀の改定、享保の大飢饉後の窮民対策などがそれである。宝暦4年(1754年)には早良郡田島村に別邸屋敷、友泉亭を建立(現友泉亭公園)。ちなみに吉田栄年と協力して行なった藩政改革は、一定の成果を収めている。また、伝統芸能、文化を愛した。中でも能楽を大変好み、桜田の黒田家上屋敷にては、盛大な能会を何度も催している。この間、将軍御成や御老中連が黒田家を何度も訪れ、演能する能役者のために邸内に稽古場を作り、自身も嗜んだ。
晩年の継高は、長男・重政、三男・長経という2人の次期当主となりうる男子を相次いで亡くし、後継者問題に見舞われた。継高や重臣は評議の上で、岡山藩主池田宗政の次男・政長改め長泰(後の相良長寛)を養子に迎えることに決定した。長泰は継高の外孫(長女・藤子の次男)であった。しかし、宝暦13年(1763年)9月、幕府は10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助(一橋宗尹の五男、後の黒田治之)を養子にすることを打診してきた。継高は家臣団・一門と協議のうえ、藩存続のために隼之助を養子に迎え入れることにした。亡くなった重政の娘、屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて黒田家の血統維持をはかったものの、屋世は11歳で早世してしまい、女系での血統維持も出来なかった。
明和6年(1769年)12月10日、継高は隠居し、養子治之に家督を譲った。隠居後は、図書頭を称した。安永4年(1775年)6月17日、福岡城にて死去した。享年73。法号は功崇院章山道善。
逸話[編集]
宝暦2年(1752年)雷山に大悲王院千如寺(福岡県糸島市)を再興、堂宇を建立した。境内の大楓は著名である。
一族[編集]
- 正室:幸姫(圭光院) - 黒田宣政養女、黒田吉之の娘
- 側室:田中氏
- 三女・正姫(玉津院)(黒田長邦室)
- 側室:小寺氏
- 側室:三隅氏
- 側室:岸原氏
- 八女・娘(久我信通婚約者)
- 側室:三原氏
- 九女・娘
- 側室:大納言鷲尾隆照女
- 十三女・厚姫(醍醐冬香婚約者)
脚注[編集]
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