1964年自由民主党総裁選挙

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1964年自由民主党総裁選挙(1964ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1964年7月10日文京公会堂で行われた自由民主党総裁を選任する選挙である。

概要[編集]

1964年に池田勇人総裁の任期満了を受けて行われた自由民主党総裁選挙である。三選を期する池田勇人(池田派)が、池田の政権運営に批判的であった佐藤栄作(佐藤派)、藤山愛一郎(藤山派)を破って三選を果たした。

経緯[編集]

選挙戦前、池田の出馬を阻止しようとする動きが佐藤への禅譲工作とあわせてあったとされるが池田は拒否し、ともに「吉田学校」の優等生といわれていた池田と佐藤の直接対決となった[1]

池田としては現職の強みとして、一回目の投票で過半数を獲得して党内の安定化を図ろうとしたい。そして佐藤は藤山派と二・三位連合を結び、決選投票に持ち込みたいなどといった思惑が重なり、この総裁選にはかつてないほどの"実弾"が飛び交ったといわれている。そのため次のような隠語まで登場した。

  • 「生一本」(所属している派閥の意向に従うこと)
  • 「ニッカ」(二派閥から金をもらうこと)
  • 「サントリー」(三派閥から金をもらうこと)
  • 「オールドパー」(あちこちの派閥から金をもらい、結局誰に投票したか不明なこと)

池田派と佐藤派という保守本流同士の争いで、池田薄氷の勝利には二つの大きな流れがあった。一つは田中角栄(当時大蔵大臣)である。田中は佐藤派であったが、池田とは池田が大蔵官僚であった頃からの仲で池田に近く、池田に力を貸していた[2][3]。佐藤派幹部で池田と口が利けるのは田中だけで[4]、池田と佐藤を繋ぐ者は当時すでに議員を引退していた吉田茂を除くと田中しかいなかった[4]。総裁選の間、田中は佐藤派の事務所にはほとんど姿を見せず、1回来たが挨拶しただけで帰ってしまった[2]。佐藤も田中の微妙な立場は知っていて「田中のことは触れるな」と言っていたという[2]。田中が積極的に佐藤側に付いていれば佐藤が勝ったといわれる[2]

もう一つが渡邉恒雄であった[5]。渡邊は大野伴睦と親しい間柄であったが、総裁選で激しい党内争いをしていたとき、副総裁だった大野が脳溢血で倒れた(5月29日死去)。そのとき大野派では、総裁選で池田を推すか佐藤を推すかで派内で大議論の最中だった。渡邉は池田支持だったため、病床の大野に「あなたは佐藤には騙されたことがあるが、池田には騙されたことがない。今回も池田を支持すべきだ」と話したが、大野はかなり容体が悪く返事がない。渡邊は秘書の山下勇や中川一郎と仕掛け、大野が権力を維持するためには、大野が元気で、しっかり意思表示できるという証明がいると、まず面会謝絶にして、大野が毎日俳句を作っていることにしてそれを記者会見で発表した。俳句は多少心得のあった大野の第3秘書が書いた。その後、渡邉が大野事務所に行き「大野さんは池田支持に決めた」とみんなに言うと幹部の船田中原健三郎が「大野先生の意向は決まった」と叫び、大野派40名が池田支持に回った[5]。大野派の支持がなければ池田にとっては微妙な戦いだった[6][5]。渡邊はこの功績によって池田に可愛がられるようになり、大野派を継いだ船田派番となり、旧大野派の窓口になって池田に直接閣僚人事を交渉したという[7]

選挙投票の開票結果[編集]

得票数
池田勇人 242票
佐藤栄作 160票
藤山愛一郎 72票
灘尾弘吉 1票
  • この当時の総裁選挙は立候補制ではなかったため、自民党所属の国会議員に対する票であればすべて有効票として扱われた。

当選者[編集]

  • 池田勇人

その後[編集]

池田は過半数を上回ることわずか4票、かろうじて一回目投票での総裁3選を果たすという「苦い勝利」(秘書官の伊藤昌哉)でもあったが、「一輪咲いても、花は花」(池田を支持した松村謙三)とも言われ、ともかくも三期目をスタートさせた。

しかし、その後池田は体調を崩し入院、その結果喉頭癌が発見される。池田にガンであることは告知されなかったが、体調の悪化により東京オリンピック閉会式の翌日10月25日に内閣総辞職を表明した。

先の総裁選で、党内は遺恨が残る状態であり、再度の総裁選は避けたいという機運が高まり、話し合いによる総裁選出となる。三木武夫幹事長川島正次郎副総裁などによる党内調整の結果、この総裁選で2位を獲得した佐藤栄作が後継者に妥当との判断を示し、11月9日に池田総裁指名により、佐藤を後継首班候補として選出した。同日、国会での指名を受けて新たに内閣総理大臣となった佐藤が自由民主党総裁として正式に選出されるのはこの後、12月1日のことである。

田中は前の選挙戦では佐藤を裏切った形となったが、池田の近くにいたため、池田が病に倒れた後、池田を見舞い、最も早く池田の病状や胸中を察知でき、池田が「後継を佐藤」と判断しているという認識を佐藤に橋渡しすることで先の総裁選での佐藤への義理を返した[2]

この総裁選はかつてないほどの"実弾"が飛び交い、"史上最低の選挙"ともいわれた総裁選として知られる[6][8][9]。以後の総裁選には必ずこれに類する裏工作が展開されるのが常識になった[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

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出典[編集]

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参考文献[編集]

  • 伊藤隆御厨貴飯尾潤 『渡邉恒雄回顧録』 中央公論新社、2000年。ISBN 412002976X。
  • 大久保利謙入江徳郎草柳大蔵監修 『グラフィックカラー昭和史 第13巻 繁栄と混迷』 研秀出版、1977年
  • 塩口喜乙 『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折朝日新聞社1975年
  • 中村隆英 『昭和史 II』 東洋経済新報社1993年
  • 松野頼三(語り) 戦後政治研究会(聞き書き・構成) 『保守本流の思想と行動 松野頼三覚え書朝日出版社1985年。ISBN 4-255-85070-4。
  • 吉村克己 『池田政権・一五七五日』 行政問題研究所出版局、1985年。ISBN 4905786436。