1994年のF1世界選手権
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1994年のFIAフォーミュラ1 世界選手権 |
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前年: | 1993 | 翌年: | 1995 |
一覧: 開催国 | 開催レース |
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1994年F1世界選手権は、FIAF1世界選手権の第45回大会である。1994年3月27日に、ブラジルで開幕し、11月13日に、オーストラリアで開催される最終戦まで、全16戦で争われた。
概要[編集]
ベネトンのミハエル・シューマッハが、ウィリアムズのデイモン・ヒルとの争いを制してチャンピオンに輝いた。一方で、第3戦サンマリノGPにおけるアイルトン・セナと、ローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故等、安全性の確保が課題、さらにはレギュレーションの作り方を考えさせられる年であった。
ハイテク禁止と給油作戦復活[編集]
FIA会長マックス・モズレーの方針により、F1の競技性を見直すレギュレーションの改訂が行われた。1990年代のF1マシンはトラクションコントロール(TCS)、アクティブサスペンション、アンチロック・ブレーキ・システム(ABS)などのハイテク装備が急速に進化していた。1992年には実用の域に達し、1993年はほとんどのチームが性能に差はあれどハイテク装備を使用した年となった。ただし、92年の経過を受け、93年のレギュレーションにおいて、車体に関するレギュレーション変更[1]を行い一定のブレーキをかけようとしたが、最終的には92年と大差ないスピードを取り戻した。そのため、FIAは大鉈を振るうことを決断。開発コストの抑制やドライバー同士のバトルを増やすという方針からそれらは廃止された(セミオートマチックギアボックスやパワーステアリングは合法とされた)。また、レース中の順位変動を活発化しエンターテイメント性を高めるため、1983年以来となるレース中の再給油が許可された。
FIAからすれば、ハイテク装備の性能によってレース結果が左右される状況が緩和されることを期待していた面もあった。ところが、ハイテク装備禁止という規定は92年から案として出ていたものの、F1マシンというのは翌年のマシン開発のために数か月かかるのが常識であったことや過去の事例[2]から、禁止する方向に進んでも発表されてから数年後になるという見方が大多数を占めていた。そんななか、93年シーズン途中に94年からハイテク装備が禁止されることが決定した。だが、急な変更によりマシン開発は混乱をきたしたうえ[3]、ベネトンのようにハイテクに頼らないマシン開発をしていたチームは比較的上手く対応したが、ウィリアムズのように変更がないことを前提に開発していたチームは対応に苦慮した。そもそも、ハイテク装備は多かれ少なかれマシンの高速化の対応に一役買っていたのだが、ハイテク装備禁止以外のレギュレーション変更[4]がなかったため、前年よりマシンの平均速度が上昇する可能性があったにもかかわらず、変更を実施した場合の問題の検証がされているとは言えなかった。その結果、制御が著しく不安定となったマシンが続出。これがイモラでの悲劇の遠因となり、結果的にレギュレーション変更が裏目に出てしまった年となった。またピットでの給油作業では懸念された通り出火事故が起こり、ドイツGPでヨス・フェルスタッペンとベネトンのピットクルーが火傷を負った。また、ハイテク装備の禁止のうちエンジンコントロールユニットのプログラムで制御するTCSを完全に規制することは困難で、数チームが使用疑惑をかけられた。
サンマリノGPの悲劇とその後の安全問題[編集]
2月に行われたシルバーストンのテストで、J.J.レートのマシンが大クラッシュ。レートは頸骨を骨折する大怪我を負い開幕2戦を欠場。さらにブラジルGP後のテストで、ジャン・アレジが負傷し2戦欠場となった。この年、セナは6年間在籍したマクラーレンを離れ、当時最強と言われたウィリアムズ・ルノーのシートを得た。チャンピオン最有力候補と目されながら開幕2連続リタイアと出遅れ、第3戦サンマリノGPの決勝でセナはトップ走行中にクラッシュし、搬送先の病院で死亡した。3度のワールドチャンピオンの突然の死は母国ブラジルだけでなく、世界中のモータースポーツファンに衝撃を与えた。

このサンマリノGPは後に「呪われた週末」と呼ばれることとなった。まず、金曜予選中にルーベンス・バリチェロが負傷し決勝の欠場が確定。土曜予選ではラッツェンバーガーの事故死が発生。そして、決勝はセナの一件以外にも、スタート直後にJ.J.レートとペドロ・ラミーが接触し、舞い上がったパーツが観客に当たり怪我をする事故やピットインしたミケーレ・アルボレートのマシンからタイヤが外れピットクルーを巻き込み負傷事故が起きるなど、大事故が多発した。F1開催中の死亡事故は1982年のリカルド・パレッティ以来(テスト走行では1986年にエリオ・デ・アンジェリスが死亡)[5]となり、カーボンモノコックの普及により築かれた安全神話は打ち砕かれた。
そのため、相次ぐ死傷事故に早急な安全対策が求められたが、本格的な変更はモナコGP後に実施される予定であった。だが、5月12日のフリー走行中、カール・ヴェンドリンガーが一時意識不明に陥る事故が起きた。これを受け、ドライバーが結束しGPDAを再興。FIAに安全について要求した。それを受けFIAはモナコGPはピットレーンにおける制限速度を即導入し、スペインGPではマシンに規制を行うという追加のレギュレーション変更を正式に発表。だが、発表されたのは5月13日、スペインGPは予選が5月27日と28日、決勝戦は5月29日なため、最大でも2週間の猶予しかなく、急場の改造によってむしろ危険性が増すのではないかという不安を招いた。そして、それは現実となり、ペドロ・ラミーが別のコースでスペイン仕様のマシンをテスト中、リアウィング脱落によって大クラッシュを喫し、全治1年とも言われる重傷を負った。そのうえ、スペインGPの予選走行中、ラッツェンバーガーの代役アンドレア・モンテルミーニが脚を骨折。参加チームによる批判はさらに高まり、FIAもスペインGPの一件を経て場当たり的な変更から安全性を重視したうえで変更するようになった。
また、全体的に見ればシーズン中にレギュレーションが改訂されつづける異例の事態(詳細はF1レギュレーションの「1994年シーズン途中から」を参照)となり、サーキットの安全性も指摘され、ベルギーGPでは名物の高速コーナー、オー・ルージュに仮設シケインが設けられた。そして、シーズン終了後、シーズン中の事故の多発を受け、まずサーキットの安全対策が徹底されることとなった。また、レギュレーション変更だが、性能の格差解消は継続していたものの、安全性に重点が置かれるようになり、以降はテストや項目をクリアしていないマシンの参加は認めないという方針に舵へきっていくこととなる。
シューマッハとヒルの対決[編集]
シューマッハは給油解禁に対応したレース戦略で開幕4連勝を含め、前半7戦中6勝という快進撃を見せた。2位に終わったスペインGPも、5速ギアしか使えないまま走行した結果である。ランキング2位のヒルに30点以上のポイントリードを築いたが、イギリスGPでフォーメーションラップ時においてヒルを何度か追越したことによるピットストップペナルティの指示を無視したためレース後に失格。のちに2戦出場停止が課せられた。さらに、ベルギーGPで優勝しながら、レース後の車検でスキッドブロック(木製の底板)の厚さが規定違反とされ、再び失格となった。
セナ亡き後ウィリアムズのエースとなったヒルは、父グラハムが果たせなかった地元のグランプリ優勝をポール・トゥ・ウィンで達成。シューマッハが失格と出場停止で無得点となった3戦を3連勝し、ポイント差を一気に1点まで縮めた。ヨーロッパGPをシューマッハ、日本GPをヒルが制し、1点差のまま迎えた最終戦オーストラリアGPでも両者は接近戦を展開。先行するシューマッハがコースアウトし、サスペンションを壊したまま強引にコースへ復帰しヒルをブロックし、次のコーナーで抜こうとしたヒルと接触。両者ともリタイアという後味の悪い結末だったが、シューマッハのドライバーズチャンピオンが決定した。
コンストラクターズはウィリアムズがベネトンを抑えて3連覇を達成。エースドライバーの得点が僅差だったため、セカンドドライバーの貢献度で差がつく結果となった。
特記記事[編集]
- 1992年にF1、1993年にCARTのチャンピオンとなったナイジェル・マンセルがウィリアムズより4戦にスポット参戦した。日本GPでは雨中でジャン・アレジと激しいバトルを繰り広げ、オーストラリアGPでは自身最後のF1優勝を果たした。
- 天候に左右されたベルギーGP予選で、ルーベンス・バリチェロが自身初のポールポジションを獲得(ジョーダンチームとしても初)。アンドレア・デ・チェザリス(22歳307日)を更新する最年少ポールポジション記録(22歳96日)となった。この最年少記録は2003年にフェルナンド・アロンソ、2008年にセバスチャン・ベッテルにより更新されている。
- スポーツカーレースで成功を収めたプジョーがエンジンメーカーとしてF1へ参戦。マクラーレンと組むも、エンジンブローを連発しこの年限りで提携を解消。ただ、撤退はせず1995年からは供給先をジョーダンへ変更し参戦を継続する。
- ドイツGPでゲルハルト・ベルガーがフェラーリにとって3年半ぶりの優勝を果たす。ベルガーは1987年にもフェラーリにとって2年ぶりの優勝を飾っている。
- メインスポンサーのないティレルの健闘が光った。マーク・ブランデルがスペインGPで3位表彰台を獲得。片山右京はドイツGPの予選およびハンガリーGPの予選において、当時の日本人選手の最上位である5位を記録(これまでの最上位は1988年の日本GPとメキシコGPで中嶋悟と1993年のベルギーGPで鈴木亜久里が記録した6位)。だが、決勝ではジョーダンの2台に巻き込まれリタイア。
- ティレルの健闘の遠因の一つでもあり、当時の混乱ぶりを象徴する事例として、この年は14チーム参加中、シーズンを通してドライバー交代がなかったチームは、このティレルを含めて、フットワーク、ミナルディ、パシフィックの4チームのみであった。通年ではありえない四強とよばれるトップチームすべて、中堅・下位チームもほぼ何らかの事情・事故によりドライバー交代が行われた年であった。
- 鈴鹿サーキットで行われた日本GPの他に、TIサーキット英田でパシフィックグランプリが行われ、初めて日本で2つのグランプリが開催された。
- ウィリアムズのテストドライバーデビッド・クルサード、リジェのオリビエ・パニス、ザウバーのハインツ=ハラルド・フレンツェン、ベネトンのヨス・フェルスタッペン、ロータスのミカ・サロ、シムテックの井上隆智穂がF1デビューする一方で、ミケーレ・アルボレート、フィリップ・アリオー、アンドレア・デ・チェザリス、クリスチャン・フィッティパルディ、ヤニック・ダルマス、エリック・コマス、J.J.レート、デビッド・ブラバム、ポール・ベルモンドといったドライバーがこの年限りでF1から引退した。
- コンストラクターではシムテックとパシフィックが参戦。シーズン後、F1参戦37年・通算79勝の名門ロータスが資金難のため消滅[6]。鈴木亜久里や片山右京、鈴木利男、野田英樹が以前在籍したラルースも活動はこの年をもって消滅した。
開催地及び勝者[編集]
- アルゼンチングランプリは10月16日開催予定であったが、1991年から行われていた改修工事が完了しなかったため中止となった。代わりにヘレスでヨーロッパグランプリとして開催された[7]。
エントリーリスト[編集]
エントラント | コンストラクタ | シャーシ | エンジン | タイヤ | ドライバー |
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ウィリアムズ | FW16 FW16B |
ルノーRS6(V10) | G | 0.![]() 2. ![]() (2.) ![]() (2.) ![]() |
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ティレル | 022 | ヤマハOX10B(V10) | G | 3.![]() 4. ![]() |
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ベネトン | B194 | フォードZETEC-R(V8) | G | 5.![]() (5.) ![]() 6. ![]() (6.) ![]() (6.) ![]() |
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マクラーレン | MP4/9 | プジョーA10(V10) | G | 7.![]() (7.) ![]() 8. ![]() |
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フットワーク | FA15 | フォードHB8(V8) | G | 9.![]() 10. ![]() |
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ロータス | 107C 109 |
無限MF351HC,HD(V10) | G | 11.![]() (11.) ![]() (11.) ![]() (11.) ![]() (11.) ![]() 12. ![]() (12.) ![]() |
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ジョーダン | 194 | ハート(V10) | G | 14.![]() 15. ![]() (15.) ![]() (15.) ![]() |
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ラルース | LH94 | フォードHB7 (V8) | G | 19.![]() (19.) ![]() (19.) ![]() (19.) ![]() 20. ![]() (20.) ![]() |
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ミナルディ | M193B M194 |
フォードHB6,7(V8) | G | 23.![]() 24. ![]() |
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リジェ | JS39B | ルノーRS6(V10) | G | 25.![]() (25.) ![]() (25.) ![]() 26. ![]() |
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フェラーリ | 412T1 412T1B |
フェラーリTipo042,043(V12) | G | 27.![]() (27.) ![]() 28. ![]() |
![]() ![]() |
ザウバー | C13 | メルセデス2175A(V10) | G | 29.![]() (29.) ![]() (29.) ![]() 30. ![]() |
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シムテック | S941 | フォードHB5,6(V8) | G | 31.![]() 32. ![]() (32.) ![]() (32.) ![]() (32.) ![]() (32.) ![]() |
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パシフィック | PR01 | イルモア2175A(V10) | G | 33.![]() 34. ![]() |
エントラント名変更[編集]
- ザウバーは第7戦以降はザウバー・メルセデス・ベンツに変更。
エンジン変更[編集]
- ミナルディは、第4戦までHBシリーズ6、第5戦以降はシリーズ7を使用。
- シムテックは、第4戦までHBシリーズ5、第5戦以降はシリーズ6を使用。
ドライバー変更[編集]
- ウィリアムズのNo.2は、第4戦は欠場。第5,6戦と第8戦から第13戦はクルサードが、第7戦と第14戦以降はマンセルがドライブ。
- ベネトンのNo.6は、
- マクラーレンのNo.7は、第10戦のみアリオーがドライブ。
- フェラーリのNo.27は、第2,3戦はラリーニが出走。
1994年のドライバーズランキング[編集]
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太字:ポールポジション |
1994年のコンストラクターズランキング[編集]
順位 | コンストラクター | 車番 | BRA![]() |
PAC![]() |
SMR![]() |
MON![]() |
ESP![]() |
CAN![]() |
FRA![]() |
GBR![]() |
GER![]() |
HUN![]() |
BEL![]() |
ITA![]() |
POR![]() |
EUR![]() |
JPN![]() |
AUS![]() |
ポイント |
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1 | ![]() |
0 | 2 | Ret | 6 | Ret | 1 | 2 | 2 | 1 | 8 | 2 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | Ret | 118 |
2 | Ret | Ret | Ret | Ret | 5 | Ret | 5 | Ret | Ret | 4 | 6 | 2 | Ret | 4 | 1 | ||||
2 | ![]() |
5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | DSQ | Ret | 1 | DSQ | 9 | Ret | 1 | 2 | Ret | 103 |
6 | Ret | Ret | Ret | 7 | Ret | 6 | Ret | 8 | Ret | 3 | 3 | Ret | 5 | Ret | Ret | Ret | |||
3 | ![]() |
27 | 3 | Ret | 2 | 5 | 4 | 3 | Ret | 2 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 10 | 3 | 6 | 71 |
28 | Ret | 2 | Ret | 3 | Ret | 4 | 3 | Ret | 1 | 12 | Ret | 2 | Ret | 5 | Ret | 2 | |||
4 | ![]() |
7 | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | 2 | 3 | 3 | 3 | 7 | 12 | 42 |
8 | Ret | Ret | 8 | 2 | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | 4 | Ret | 5 | 6 | Ret | Ret | 3 | |||
5 | ![]() |
14 | 4 | 3 | DNQ | Ret | Ret | 7 | Ret | 4 | Ret | Ret | Ret | 4 | 4 | 12 | Ret | 4 | 28 |
15 | Ret | Ret | Ret | 4 | 6 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 13 | Ret | 7 | 4 | 5 | Ret | |||
6 | ![]() |
25 | Ret | 10 | 12 | Ret | 8 | 13 | Ret | 13 | 3 | 10 | 10 | 7 | 10 | 8 | Ret | 11 | 13 |
26 | 11 | 9 | 11 | 9 | 7 | 12 | Ret | 12 | 2 | 6 | 7 | 10 | DSQ | 9 | 11 | 5 | |||
7 | ![]() |
3 | 5 | Ret | 5 | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 7 | Ret | Ret | 13 |
4 | Ret | Ret | 9 | Ret | 3 | 10 | 10 | Ret | Ret | 5 | 5 | Ret | Ret | 13 | Ret | Ret | |||
8 | ![]() |
29 | 6 | Ret | 4 | WD | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 10 | 12 | |
30 | Ret | 5 | 7 | WD | Ret | Ret | 4 | 7 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | 6 | 7 | |||
9 | ![]() |
9 | Ret | 4 | 13 | Ret | Ret | DSQ | 8 | 9 | 4 | 14 | Ret | Ret | 8 | 17 | 8 | 8 | 9 |
10 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 5 | Ret | 6 | Ret | 9 | 11 | Ret | Ret | |||
10 | ![]() |
23 | 8 | Ret | Ret | Ret | 5 | 9 | 5 | 10 | Ret | Ret | 8 | Ret | 12 | 15 | Ret | 9 | 5 |
24 | Ret | Ret | Ret | 6 | Ret | 11 | Ret | Ret | Ret | 7 | 9 | Ret | 13 | 14 | Ret | Ret | |||
11 | ![]() |
19 | 9 | 6 | Ret | 10 | Ret | Ret | 11 | Ret | 6 | 8 | Ret | 8 | Ret | Ret | 9 | Ret | 2 |
20 | Ret | Ret | Ret | 8 | Ret | Ret | Ret | 14 | 7 | 9 | Ret | Ret | 14 | Ret | Ret | Ret | |||
- | ![]() |
11 | 10 | 8 | Ret | 11 | 9 | 15 | Ret | Ret | Ret | 13 | Ret | Ret | 16 | 16 | 13 | Ret | 0 |
12 | 7 | 7 | 10 | Ret | Ret | 8 | 7 | 11 | Ret | Ret | 12 | Ret | 11 | 18 | 10 | Ret | |||
- | ![]() |
31 | 12 | Ret | Ret | Ret | 10 | 14 | Ret | 15 | Ret | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | 12 | Ret | 0 |
32 | DNQ | 11 | DNS | DNQ | 9 | 16 | Ret | Ret | 11 | Ret | 15 | 19 | Ret | Ret | |||||
- | ![]() |
33 | DNQ | DNQ | DNQ | Ret | Ret | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | 0 |
34 | Ret | DNQ | Ret | Ret | Ret | Ret | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | DNQ | |||
順位 | コンストラクター | 車番 | BRA![]() |
PAC![]() |
SMR![]() |
MON![]() |
ESP![]() |
CAN![]() |
FRA![]() |
GBR![]() |
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ITA![]() |
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ポイント |
参照[編集]
- ^ 一例を挙げれば、リヤタイヤ幅が18インチから15インチに縮小したことなど。
- ^ 1989年のターボエンジン禁止を例にすれば、1986年に議論が始まり、1987年に89年からターボ禁止のレギュレーションを導入するという内容が発表された。そのため、禁止が確定しても1から2年程度先の話だと思われていた。
- ^ 後年の話でいえば、2017年を以て廃止された空力パーツのシャークフィンだが、当初は2018年も存続する予定であったが、シーズン終盤にそれぞれのチームの思惑によって廃止が決定。その結果、急遽リアウイングの設計変更が必要になったという事例がある。シャークフィン反対に回ったマクラーレンの狙いは?www.topnews.jp(2017年11月25日)2020年3月16日閲覧
- ^ 例えば、1988年の過給機付きエンジンの過給圧制限のようなハイテク装備以外での戦闘力の均衡化は行われていなかった。
- ^ ただし、セナと同じ「決勝戦のレース走行中にコース上で死亡した」のは1974年のヘルムート・コイニク以来。また、「GP中のコース上での事故死」としてはパレッティが最後となるが彼は「スタート直後、エンジンストールで停止していたマシンに自身が衝突し死亡」という原因なため、厳密に言えばセナと状況が異なっている。
- ^ 紆余曲折あったが、ロータスという名自体は2011年に復活する。
- ^ June 1994 Motorsport Information
外部リンク[編集]
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