51年綱領

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51年綱領(51ねんこうりょう、英語: 1951 platform[1])または51年テーゼ(51ねんテーゼ)とは、日本共産党1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で採択した「日本共産党の当面の要求 - 新しい綱領」のことである。

内容としては、「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがい」「武装の準備と行動を開始しなければならない」とする暴力革命必然論に基づく武装闘争方針が示された綱領であり、これに基づき警察襲撃事件などが相次いだ[2][3]。現在、日本共産党は、これを「51年文書」と呼び、党の綱領とは認めていない(後述)。

概要[編集]

1950年1月、コミンフォルムが、機関誌『恒久平和と人民民主主義のために』で掲載された「日本の情勢について」と題する論文で、野坂参三らが主張していた平和革命戦術に対し、"日本は米国の完全な従属化にあるにもかかわらず、日本共産党の一部のものは、米軍の撤退を求めて独立を闘いとることもしないのみか、占領下においても社会主義への平和移行が可能であるとさえいっている。このような野坂のいう平和革命論は、米軍とその背後にある米軍とその背後にある資本家勢力を美化し、日本の人民を欺く理論であり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないもの"と痛烈に批判した[4][5]

これを受けて日本共産党[6]は、翌1951年10月に第5回全国協議会[7]を開催し、その中で「日本共産党の当面の要求 - 新しい綱領」(「51年綱領」)を採択した[8]

「51年綱領」の主な内容としては、以下のとおりである[8]

  • 日本はアメリカ帝国主義の隷属化にある半封建的な植民地的国家である
  • したがってこのアメリカの支配から我が国の国民を開放するためのいわゆる「民族解放」と32年テーゼに規定する我が国の半封建的な反動勢力を打倒するという「民主主義革命」とを結合した「民族解放民主革命」が当面する革命の任務である
  • 日本の開放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである(これまでの平和革命方式を捨て、暴力革命を採ることを表明)

5全協では、「51年綱領」とともに「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と題する軍事方針武装行動綱領(「軍事方針」)も打ち出され、日本共産党は火炎瓶等を用いた武装闘争に突入し、殺人事件や騒擾事件をひきおこした[9]

このような日本共産党の非合法活動は国民から非難されるところとなり、支持を失った日本共産党は1952年の第25回衆議院議員総選挙で全議席を失った。

「51年綱領」の撤回[編集]

勢力挽回を図る日本共産党は、1955年7月の第6回全国協議会(6全協)で、武装闘争を"誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である。この誤りは、党が国内の政治情勢を評価するにあたって、自分自身の力を過大に評価し、敵の力を過小評価したことにもとづいている"などと自己批判した[10]。一方で、"新しい綱領が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している""わが党の基本方針は依然として新しい綱領にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである"としており、「51年綱領」を評価し、引き続き綱領として堅持している[3]

1958年7月の第7回党大会では、「51年綱領」を"一つの重要な歴史的な役割を果たした"と評価したうえで正式に廃止した[10]。警察・公安見解では、これらの見直しの中で"(革命方式が)平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による"とする「敵の出方論」の方針が出されており、日本共産党は現在も暴力革命を手段として放棄していないとされている[9][10]

現在の日本共産党の見解とそれに対する政権側による批判[編集]

現在の日本共産党は、「51年綱領」に係る党への一切の批判をデマと断じ、過去の暴力的破壊活動は"分裂した一方が行ったことで、党としての活動ではない""党の正規の方針として『暴力革命の方針』をとったことは一度もない"と主張しており[10][11]1993年6月24日付の宇野三郎名で出された(発表は6月25日付の『赤旗』)「いわゆる『51年綱領』という用語の変更について」で、「51年綱領」について"党規約にもとづく正規の会議で採択された文書ではない""分派組織が外国の党に押し付けられた文書を綱領などと呼ぶことは適切ではない"として、「51年文書」と呼び変えるとしている[8]

一方、警察庁は、白鳥警部射殺事件大須騒擾事件等を例に挙げ、日本共産党が暴力的破壊活動を行ったことは歴史的事実であるとして批判している[10]。さらに、「第7回党大会では、野坂参三第一書記(当時)が5全協について"党の分裂状態を実質的に解決していない状況の中で開かれたもので不正常なものであることをまぬがれなかった"としつつも、"ともかくも一本化された党の会議であった"と認めている」と指摘している[3][9]。更に、公安調査庁はホームページのなかで、「党中央委員会議長党常任幹部会副委員長をそれぞれ務めた不破哲三上田耕一郎も、共著の中で"たんに常識はずれの『一場の悪夢』としてすまされることのできない、一国の共産党が全組織をあげ、約2年間にわたって国民にさし示した責任のある歴史的行動であった"と総括している」という趣旨の記述をしている[9]

現在においても、公安調査庁は日本共産党を破壊活動防止法に基づき監視対象としているし[9]日本国政府第3次安倍内閣)も2016年3月22日閣議で、"政府としては(日本)共産党が日本国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している""(日本共産党は)現在においても破壊活動防止法に基づく調査対象団体である"とする答弁書を決定している[12]。これを受けた山下芳生書記局長は、22日の記者会見で、"憲法違反の破防法の対象になるようなことは過去も現在も将来も一切ない。極めて厳重な抗議と答弁書の撤回を求める"等と反論した[13]

脚注[編集]

  1. ^ "The Quest for the Lost Nation: Writing History in Germany and Japan in the American Century," p.161 (英語)
  2. ^ 「暴力革命の方針継続」として政府が警戒する共産党の「敵の出方論」とは?”. 産経新聞 (2016年3月23日). 2017年11月23日閲覧。
  3. ^ a b c 立花書房編『日本共産党用語事典』(2009年)8-10頁。
  4. ^ コミンフォルム批判”. コトバンク. 2017年11月23日閲覧。
  5. ^ 立花書房編『新 警備用語辞典』(2009年)146頁。
  6. ^ コミンフォルム批判後に党の闘争方針を巡って別れた所感派国際派の対立は、「国際派は所感派主導下の党戦列に復帰すべきである」とする1951年8月のモスクワ放送により一応収拾している(立花書房編『新 警備用語辞典』(2009年)136頁)。
  7. ^ 全国協議会は党大会に代わる決議機関として位置づけられていた(立花書房編『新 警備用語辞典』(2009年)136頁。)
  8. ^ a b c 立花書房編『新 警備用語辞典』(2009年)136頁。
  9. ^ a b c d e 共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解”. 公安調査庁. 2017年11月25日閲覧。
  10. ^ a b c d e 暴力革命の方針を堅持する日本共産党”. 焦点 第269号. 警察庁. 2017年11月23日閲覧。
  11. ^ 「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭”. しんぶん赤旗 (2016年3月24日). 2017年11月25日閲覧。
  12. ^ 衆議院議員鈴木貴子君提出日本共産党と「破壊活動防止法」に関する質問に対する答弁書”. 衆議院 (2016年3月22日). 2017年11月25日閲覧。
  13. ^ 政府が「共産党は破防法調査対象」と答弁書を閣議決定”. 産経新聞 (2016年3月23日). 2017年11月23日閲覧。

参考文献[編集]

  • 立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年
  • 立花書房編『日本共産党用語事典』立花書房、2009年

関連項目[編集]