BOØWY (アルバム)
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『BOØWY』 | ||||
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BOØWY の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1985年2月26日 - 3月15日 ハンザ・スタジオ(ハンザトン・スタジオ) | |||
ジャンル | ロック | |||
時間 | ||||
レーベル | 東芝EMI/イーストワールド | |||
プロデュース | 佐久間正英 | |||
チャート最高順位 | ||||
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BOØWY アルバム 年表 | ||||
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EANコード | ||||
EAN 4988006063754 EAN 4988006195479 EAN 4988006234307 EAN 4988031108642 EAN 4988031108659 | ||||
『BOØWY』収録のシングル | ||||
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『BOØWY』(ボウイ)は、日本のロックバンドであるBOØWYの3枚目のアルバム。
背景[編集]
1984年に入ってからも、BOØWYの活動はライブを中心に行われ、渋谷ライブインを拠点とするシリーズギグを実施、また全国をハイエースで回るライブツアーも4回実施するなど精力的に活動を続けていた。渋谷ライブインでは1200人を超す動員記録を達成し、その人気は音楽関係者にも知れ渡るようになり、様々な音楽事務所やレコード会社の関係者がメンバーと接触を持つようになる[1]。
しかし、メンバーはかつて所属した音楽事務所やレコード会社との連携が上手くいかなかった事を懸念し、業界関係者に不信感を抱いていたことから積極的に話に応じることはなかった。その中でも、マネージメントを引き受けていた土屋浩はこれ以上の活動にはメジャーな音楽事務所やレコード会社との契約が必要であると考え、ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)のプロデューサーである糟谷銑司とミーティングを重ねるようになっていく[1]。
10月7日、氷室狂介の24歳の誕生日に行われたミーティングにおいて、メンバーはユイ音楽工房と契約することを決定した。それに伴い、移籍後の活動の準備の為に半年間ライブ活動を休止することとなった[1]。さらに、12月6日に氷室は狂介から京介に芸名を改名した[2]。
1985年に入り、BOØWYはユイ音楽工房との正式な契約を取り交わし、移籍先のレコード会社として東芝EMIが選定された。また、BOØWYにとって初の本格的なレコーディングを行うにあたり、佐久間正英にプロデュースを依頼することとなり、佐久間からはドイツのベルリンにある「ハンザ・スタジオ(ハンザトン・スタジオ)」でのレコーディングであれば了承するとの返答があった。メンバーを閉ざされた環境に置くことで、音楽のみに集中させる環境を作ることが目的だった[3]。なお、佐久間は晩年のインタビューでもう一つの理由を笑い話として語っており、(当時ほとんど面識のなかったメンバーの事が)怖いからプロデュース依頼を断りたい気持ちもあったため、レコード会社側が断る事を期待して「ベルリンに行くならやります」とムチャ振りの返答をしたところ、当時東芝EMIで担当ディレクターを務めていた子安次郎が「それは最高だ!」とベルリンでのレコーディングを了承したという経緯がある[4][5]。事務所側もその条件を受け入れ、BOØWYとして初の海外レコーディングが実現する運びとなった[6]。
アルバムタイトルは、再出発の意味も込めてバンド名の『BOØWY』がそのまま使われることになった。
録音[編集]
レコーディングは1985年2月26日から3月15日まで、西ベルリン(現在のドイツ)にあるハンザ・スタジオ(ハンザトン・スタジオ)で行われた。
プロデュースは佐久間正英が担当した。佐久間は四人囃子やプラスチックスなどに在籍した後に、P-MODELのプロデュースなどを手掛け、1984年に活動拠点としてブイ・エフ・ブイスタジオを設立していた。
このアルバム制作の過程で、サウンド面ではプロデューサーの佐久間の監修と佐久間が起用したエンジニアのマイケル・ツィマリングの下で、布袋寅泰は本格的な編曲とプロデュース作業を学ぶ事となった。編曲のクレジットには布袋一人の名前が記載されているが、実際には布袋と佐久間の共同作業で楽曲のアレンジは行われた。また、佐久間は同じベーシストとして、松井恒松にベースの基本的な弾き方から伝授した。レコーディングでは松井は佐久間愛用のフェンダー・ジャズ・ベースを使用しており(後にGLAYのJIROなど、佐久間がプロデュースしたグループのベーシストが多数使用したベース)、佐久間に「このベースを譲ってください」と頼んだが、佐久間から断わられたというエピソードが残っている。
本作のレコーディングがBOØWYに与えた影響は大きかったようで、氷室は解散後のインタビューで、「俺たち(BOØWY)のやる事よりも佐久間さんの(音楽的に)やる事がワンランク上だった」と語っている。[7]。 布袋はこのレコーディングが与えた影響として、「ドイツ特有の『ハンマービート』という金槌を叩くような感じのサウンドをこのアルバムで取り入れたんですけど、BOØWYがシンプルなサウンドのままいれたのは、このレコーディングでの影響が大きかったですね。ベルリンに来てなかったら、全然(その後のBOØWYは)違っていたと思うな」と語っている。
佐久間はBOØWYの楽曲に関して、「ロックをやりたいと強く望むわりに、歌謡曲みたいな曲が多いという印象だった。当初は正直言ってヤバイなという感じ。でも彼らのプリプロを聴いているうちにあのサビでこの歌い回しが不思議と心地良いものに変わっていった」との感想を持ったと語っている[3]。
一方作詞面では、バンドとしては初めてプロの作詞家である松井五郎を迎えての共同作詞が行われ[8]、氷室も本格的な作詞技術を習得することになった。
発売当時出版されたバンドスコア(譜面集)には、レコーディングされた場所にちなんで「BERLIN」というタイトルが付けられている。
音楽性[編集]
本作では全体の半分を氷室が作曲しており(BOØWYの全アルバム中、唯一収録曲中の氷室の作曲した楽曲数が布袋の作曲した楽曲数よりも多い)、初期のパンク、ニュー・ウェイヴ色の強いサウンドから、オリジナリティあふれるサウンドへと変化している。氷室による「歌謡ロック」的なウェット感ただようメロディと、布袋によるストイックなまでにエッジの効いた「ビートバンド」的なサウンドが、はっきり聴き分けられるものとなっている[9]。
また、ハーモナイザーを多用した不安定な残響を持つギターや、キープの刻みを抜いたり3拍子にアクセントが来る変則的なビート、5度も6度も展開する曲構成などが特徴となっている[2]。
プロモーション[編集]
本作のレコーディング終了後、メンバーはロンドンに滞在していたが、3月12日にマーキー・クラブでのライブがセッティングされ、ライブを行っている。また、帰国後の4月13日には赤坂ラフォーレミュージアムにおいて、マスコミを招待してのライブを実施。約半年ぶりに実施されたライブのチケットはソールドアウトとなった[6]。
6月25日には、周囲の反対を押し切り初の大ホールとなる渋谷公会堂でのライブを実施。前売り券、当日券ともにソールドアウトとなった。当日には日本で初めて低温花火が使用された[2]。
また、本作に関するテレビ出演は、9月に群馬テレビの音楽番組『BEAT POPS』に出演し「NO. NEW YORK」、「CLOUDY HEART」を演奏、9月22日にはテレビ東京系音楽番組『LIVE ROCK SHOW』にて9月5日の安田生命ホール公演から「NO. NEW YORK」、「Dreamin'」、「CHU-RU-LU」、「CLOUDY HEART」、「Baby Action」の演奏が放送された。10月7日には朝日放送のバラエティ番組『ヤングプラザ』に出演し「NO. NEW YORK」、「CLOUDY HEART」を演奏、11月15日にはフジテレビ系バラエティ番組『オールナイトフジ』(1983年 - 1991年)に出演し「NO. NEW YORK」を演奏、11月23日には読売テレビのバラエティ番組『なげやり倶楽部』(1985年 - 1986年)に出演し、神戸ポートアイランド内の「レストランエキゾチックタウン」内から「BAD FEELING」、「OH! MY JULLY」、「NO. NEW YORK」を演奏した。
アートワーク[編集]
メンバーの写真撮影は写真家であるハービー・山口が担当した。また、山口は「ホンキー・トンキー・クレイジー」のコーラスとしてレコーディングに飛び入りで参加している[2]。
ツアー[編集]
本作を受けてのツアーは、6月27日より「BEAT TO PLATON」というタイトルで8公演が行われ、その後9月6日より本格的な全国ツアーとして「BOØWY'S BE AMBITIOUS TOUR」が全22公演実施されている。また、ツアー最終日である12月24日の渋谷公会堂の公演では、メンバーの布袋寅泰と山下久美子の結婚が報告された(後1997年に離婚)。
また、ホールでのライブがメインとなってきた事から、マネージャーの土屋はステージに関してスタッフと入念な打ち合わせを行い、「ライブはリハーサルの発表会じゃない」というポリシーのもとで計画していた[2]。他のバンドがやっているような、舞台監督の演出通りに照明に合わせてメンバーが動く事を良しとせず、その場の聴衆のノリに合わせて照明とメンバーが動く事を検討し、どのような動きにも耐えられる舞台を考案し、またどのようなトラブルにも対応できる舞台監督を担当とした[2]。
批評[編集]
専門評論家によるレビュー | |
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レビュー・スコア | |
出典 | 評価 |
別冊宝島653 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」 | 肯定的[10] |
別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説 | 肯定的[9] |
ライターの根本桃GO!は「その後のニッポンのロックにおけるひとつの大きな潮流を生み出した記念碑的作品」、「"高度に洗練された最新型ロック歌謡"というジャンルを創出し、巨大なビジネスになり得る可能性を提示した意味でも、このアルバムが果たした歴史的意義は極めて大きい」と述べている[10]。
社会学研究家の木島由晶は、「サウンドの変化のきっかけは、レコード会社側から本格的に売り出そうとする動きが見られたこと、佐久間正英、松井五郎、マイケル・ツィマリングなどにより、メンバーの才能がうまく引き出されたことにある」と述べている[9]。
チャート成績[編集]
オリコンチャートでは最高位48位であったが、ブレイクした後に売り上げは伸びていき、累計では約62万枚となった[2]。
収録曲[編集]
A面[編集]
- DREAMIN' (4:05)
- 最初の頃はライヴでは1曲目に演奏されていたが、後に本編のラストナンバーに選ばれることが多くなっていった。解散宣言を行った1987年12月24日の渋谷公会堂でのライヴでもアンコールの最後に演奏された。ライブでは氷室の「最後に夢を見てる奴らに贈るぜ!」という台詞から演奏に入る事が多かった。当初ファーストシングル曲として考えられていたが、担当ディレクターにより却下された。 ライブでは最後のコーラスである「I'm only dreamin' for me」を「I'm only dreamin' for you!」もしくは「You only dreamin' for you!」と歌われることも多く、氷室のソロ活動でも同じように歌われている。また、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手・細谷圭の応援歌でも使用されている。「Dreamin'」とも表記される。
- 黒のラプソディー (3:35)
- 作詞:氷室京介、松井五郎 / 作曲:氷室京介 / 編曲:布袋寅泰
- 「ホンキー・トンキー・クレイジー」、「“16”」、「MIDNIGHT RUNNERS」(『“GIGS” BOX』収録)と同じく、大半がシャッフル・ビートで構成されている楽曲。曲の後半では、氷室のスキャットを聴く事ができる。
- BABY ACTION (3:15)
- 作詞:氷室京介 / 作曲・編曲:布袋寅泰
- 唇にジェラシー (4:18)
- 作詞・作曲:氷室京介 / 編曲:布袋寅泰
- 前年に作られていた曲であったが、その頃はライブでは演奏されなかった。BOØWY'S BE AMBITIOUSツアーでのみ演奏されたが、ハーモナイザーを効かせたギターのイントロから始まるアレンジは原曲とは大きく姿を変えていた。
- ホンキー・トンキー・クレイジー (3:37)
- 作詞・作曲:BOØWY / 編曲:布袋寅泰
- 1stシングル。「Honky Tonky Crazy」とも表記される。
B面[編集]
- BAD FEELING (4:31)
- 作詞:氷室京介、高橋信 / 作曲・編曲:布袋寅泰
- 2ndシングルとしてリカットされた。
- CHU-RU-LU (4:00)
- 作詞・作曲:氷室京介 / 編曲:布袋寅泰
- 氷室、松井と脱退した諸星アツシが高校生時代に所属していた「デスペナルティー」というバンド時代に制作された「ブルー・シガレット・ラブ」という曲が原曲になっている。この曲は歌詞やアレンジも異なり歌謡曲的なテイストが強かった。渋谷公会堂での初ライブで氷室が「諸星と作った曲」とMCしている。デスペナルティー時代の音源はコンテストのオムニバス盤としてレコード化されている(未CD化)。
- DANCE CRAZE (2:59)
- 作詞:JONAH PASHBY / 作曲・編曲:布袋寅泰
- BOØWYの公式発表された楽曲で、唯一布袋寅泰がヴォーカルをとっている曲。歌詞は全編英語で、ライヴでは布袋はギターを持たずに、曲のカラオケに合わせてダンスのみで歌われる事もあった(その様子は、2007年発売の『“GIGS” BOX』で確認する事ができる)。
- ハイウェイに乗る前に (3:44)
- 作詞:氷室京介、松井五郎 / 作曲:氷室京介 / 編曲:布袋寅泰
- 原題は「MERSEYBEAT LADY」。後に「PUSSY LADY」と改題されライブハウス時代に演奏されていた曲がモチーフとなっている。
- CLOUDY HEART (4:29)
- 作詞・作曲:氷室京介 / 編曲:布袋寅泰
- 詳細は「CLOUDY HEART」の項を参照。
スタッフ・クレジット[編集]
BOØWY[編集]
参加ミュージシャン[編集]
- 佐久間正英 - シンセサイザー
- ジャクリーン・ロビンソン - バッキング・ボーカル
スタッフ[編集]
- 録音
- アートワーク
- 小西康夫 - カバー写真
- MASAAKI OHHASHI - メイク・アップ
- ハービー・山口 - アーティスト写真
- 丹治由美子 - アーティスト写真、アート・ディレクション
- 小林肇 - アート・ディレクション
リリース履歴[編集]
No. | 日付 | レーベル | 規格 | 規格品番 | 最高順位 | 備考 |
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1 | 1985年6月21日 | 東芝EMI/イーストワールド | LP | WTP-90334 | - | |
CT | ZH28-1536 | - | ||||
2 | 1985年7月20日 | CD | CA32-1148 | 48位 | ||
3 | 1991年12月24日 | CD | TOCT-6392 | 2位 | CD-BOX『BOØWY COMPLETE LIMITED EDITION』収録 | |
4 | 1993年3月3日 | CD | TOCT-6392 | 3位 | CD-BOX『BOØWY COMPLETE REQUIRED EDITION』収録 | |
5 | 2002年3月29日 | CD | TOCT-24792 | 14位 | CD-BOX『BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION』収録 20ビット・デジタルリマスター盤 | |
6 | 2005年2月16日 | CD | TOCT-25610 | - | 24ビット・デジタルリマスター盤 | |
7 | 2007年12月24日 | EMIミュージック・ジャパン/イーストワールド | CD | TOCT-26493 | - | 24ビット・デジタルリマスター盤 、紙ジャケット仕様、LP盤のレーベルを再現 |
8 | 2012年12月24日 | Blu-spec CD2 | TOCT-98001 | 84位 | ||
9 | 2015年6月24日 | ユニバーサルミュージックジャパン | FLAC | - | - | 『BOOWY+1』のタイトルで発売され、ボーナストラック「“16”」を収録。オリジナルマスターから192kHz/24bitのハイレゾリューションオーディオ化がなされている。リマスタリング担当はテッド・ジェンセン。 |
10 | 2015年8月5日 | Blu-ray Audio | UPXY-4001 | - | FLACで発売されたハイレゾマスターを192kHz/24bitのままBlu-ray Audioで発売 | |
UHQCD | UPCY-7037 | - | Blu-ray Audio/FLACで使用のハイレゾリマスター音源を元に作成。 | |||
10 | 2015年8月26日 | 重量盤LP | UPJY-9015 | - | オリジナルのタイトルで発売(ボーナストラックはなし)。Blu-ray Audio/FLACで使用のハイレゾリマスター音源を元に作成。 | |
11 | 2017年6月28日 | CD | UPCY-9682 | - | 2007年発売された紙ジャケット仕様(旧品番TOCT-26493)の限定復刻 |
カバー[編集]
- エリック・マーティン『Mr. Rock Vocalist』(2012年10月10日)
脚注[編集]
- ^ a b c 「ALL OF ALL」『BOØWY写真集 RENDEZ-VOUS』CBS・ソニー出版、1989年7月31日、160 - 192頁。ISBN 4789704661。
- ^ a b c d e f g 「HISTORY」『B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.』宝島社、2004年9月20日、113 - 143頁。ISBN 9784796642408。
- ^ a b 「WORKS」『B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.』宝島社、2004年9月20日、65 - 96頁。ISBN 9784796642408。
- ^ “【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.2】80年代のプロデュース~BOΦWYからブルーハーツへ”. BARKS (2013年9月26日). 2021年2月20日閲覧。
- ^ “「匠の記憶」第5回 BOØWY 3rdアルバム『BOØWY』ディレクター・子安次郎さん”. moraトピックス (2015年6月26日). 2021年2月20日閲覧。
- ^ a b 紺待人「ライナーノーツ」『BOØWY COMPLETE』、東芝EMI、1991年。
- ^ 「PART4 Sound of BOØWY アルバム&楽曲総力レヴュー」『別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』宝島社、2006年7月27日、97頁。ISBN 9784796653497。
- ^ 松井は後に氷室のソロの作詞を担当することになる。
- ^ a b c 「PART4 Sound of BOØWY アルバム&楽曲総力レヴュー」『別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』宝島社、2006年7月27日、96頁。ISBN 9784796653497。
- ^ a b 「PART4 作品パーフェクト研究」『別冊宝島653 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』宝島社、2002年6月7日、110頁。ISBN 9784796627245。