K2

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K2
K2
標高 8,611 m
所在地  パキスタン
ギルギット・バルティスタン州
中華人民共和国の旗 中国
ウイグル自治区タシュクルガン・タジク自治県
位置 北緯35度52分57秒 東経76度30分48秒 / 北緯35.88250度 東経76.51333度 / 35.88250; 76.51333座標: 北緯35度52分57秒 東経76度30分48秒 / 北緯35.88250度 東経76.51333度 / 35.88250; 76.51333
山系 カラコルム山脈
初登頂 1954年7月31日
アキレ・コンパニョーニ英語版
リーノ・ラチェデッリ英語版
イタリア隊 アルディト・デジオ英語版隊長)
K2の位置(パキスタン内)
K2
K2の位置(アジア内)
K2
Project.svg プロジェクト 山
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K2(ケーツー)は、カラコルム山脈にある山。標高は8,611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さである。パキスタンギルギット・バルティスタン州インドの主張によればインドカシミールのパキスタン占領地)と、中華人民共和国ウイグル自治区との国境に位置する。

K2という頭文字はKarakorum No.2 、つまりカラコルム山脈測量番号2号を意味する。

パキスタン最高峰であり、カラコルム山脈の最高峰でもある。

山名[編集]

測量局のトーマス・ジョージ・モントゴメリーが描いたK1(マッシャーブルム)とK2のスケッチ

世界第2位の高峰であるにも関わらず、人里から遠く離れた奥地にあるため、19世紀末まではほとんど人々に存在を知られることもなく、名前さえも無かった。

イギリス統治時代のインド測量局(en:Survey of India)のトーマス・ジョージ・モントゴメリー1856年からカラコルム山系の測量を始めた際に、南方210キロから測量した特に標高が高い山々にカラコルム(Karakorum) の頭文字「K」を取って順に、K1, K2, K3, K4, K5 と測量番号を付けた。その後、K2以外の山には、新たに名前が付けられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った[1]

王立地理学会が命名に反対したものの、この地域を探検したイギリスの探検家、ヘンリー・ハーバーシャム・ゴッドウィンオースティン(en:Henry Haversham Godwin-Austen)の名前を冠してゴッドウィンオースティン山Mt. Godwin Austen) と呼ばれることがある。中国名はチョゴリ喬戈里峰 拼音: qiáogēlǐfēng チアオコーリーフォン)で、これはチベット語系のバルティ語  (Balti dialectで「大きい山」を意味する「チョゴリ (Chogori)」が由来である[注 1]

登山[編集]

中国側(北側)からアプローチするのは困難なため、ほとんどの登山者はパキスタン側からアプローチをする[1]。登頂の難しさでは世界最高峰のエベレスト(標高8,848m)よりも上で、世界一登ることが難しい山とも言われる。その理由として、人が住む集落から遠く離れた奥地に存在する(最も近い村でさえ直線距離で約80kmも離れている)ことによるアプローチの困難さ、エベレストよりも厳しい気候条件、急峻な山容による雪崩、滑落の危険性などが挙げられる。K2登山に関しては一般的なルートでさえ、エベレストのバリエーションルートに匹敵するといわれる。これらの困難さから、冬季における登頂が未だ達成されていない唯一の8,000メートル峰となっている。遭難者の数も多く、2012年3月までの時点で登頂者数306人に対し、死亡者数は81人に達する[2](その時点でのエベレスト登頂者数は5,656人[2])。チャールズ・ハウストン、ロバート・ベイツ共著の書籍のタイトルから「非情の山」とも呼ばれる[1]

登山史[編集]

  • 1892年 - マーティン・コンウェイがイギリスの探検隊を引き連れてバルトロ氷河コンコルディアに到達。
  • 1902年 - オスカー・エッケンシュタイン隊が、北東稜より6,525メートル地点まで到達。隊員にはアレイスター・クロウリーがいる。
  • 1909年 - イタリアのアブルッツィ公が率いる隊が南東稜より6,250メートル付近まで到達。南東稜は後に標準的なルートとなり「アブルッツィ稜」とも呼ばれる。
  • その後1938年、1939年、1953年にアメリカが挑戦しているが、いずれも成功しなかった[1]
  • 1954年7月31日(初登頂) - イタリアのアルディト・デジオ隊 [1]。パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチして2人が登頂に成功[1]。以降、この南東稜ルートが標準的な登山ルートとなる[1]
  • 1977年8月8日 - 日本山岳協会登山隊の第二次アタック隊員[注 2]重広恒夫、中村省爾、高塚武由が日本人初登頂。世界でも二回目の登頂成功。翌日には第三次アタック隊の広島三朗、小野寺正英、山本英夫、アシュラフ・アマンも登頂に成功し計7人が登頂。
  • 1978年9月6日(無酸素初登頂) - ルイ・ライヒャルトが無酸素初登頂。
  • 1981年8月7日 - 早稲田大学隊の大谷映芳、ナジール・サビルが西稜ルートで初登頂。
  • 1982年8月14日 - 日本山岳協会合同登山隊(登攀隊長・小西政継)の坂下直枝、吉野寛、柳沢幸弘が、中国側の北壁からの登頂に初めて成功[1]。翌15日の二次隊も含めて7人が無酸素登頂するが、一次登頂隊の柳沢隊員が滑落死。標高8,000メートル付近の峡谷にジャパニーズ・クロワールという地名が付けられる[1]
  • 1985年8月6日 - エリック・エスコフィエが登頂。7月15日に登頂したガッシャーブルムII峰を皮切りに1シーズン中に3連続登頂を達成。
  • 1986年
    • 6月23日 - ワンダ・ルトキェヴィッチが女性初の登頂に成功。その30分後に、同じく女性でチームメイトのリリエンヌ・バラールも頂上に立ったが、リリエンヌは下山中に死亡した。
    • 7月10日 - ポーランド隊のイェジ・ククチカ、タデウシュ・ピオトロフスキーがアルパインスタイルで南壁ルートを初登頂。南東稜を下山中に7900メートル地点でピオトロフスキーが転落死。
    • 6月21日-8月10日 - 合計13名の死者を出す大量遭難事故が発生する[3]
  • 1996年7月29日 - 戸高雅史が南東稜クラシックルートで無酸素登頂。
  • 1996年8月12日8月14日 - 日本山岳会青年部登山隊(山本篤隊長)の12人が南南東リブルートより登頂。K2登山史上1チームによる最大人数登頂[4]
  • 2000年7月30日 - 山野井泰史が南南東リブルートより無酸素登頂。
  • 2004年
    • 7月27日 - 「チベット登山隊」(西蔵登山探検隊)が中国人初の登頂[5]
    • 8月16日 - 北海道在住の社会人で編成された「どさんこ同人会」(松本政英隊長)の5人が、南南東リブルートで登頂。
  • 2006年8月1日 - 東海大学山岳部登山隊の隊員・小松由佳が日本人女性として初登頂(女性としては世界で8人目)。また、隊員の青木達哉(当時21歳)が世界最年少での登頂。
  • 2008年8月1日 - 大規模な氷塊の崩落事故が発生し3人が巻き込まれ、オランダ、フランス、ノルウェー、韓国、ネパールの11名が遭難死した[6]
  • 2011年8月23日 - オーストリアの女性登山家ゲルリンデ・カルテンブルンナーが、北稜を無酸素登頂し14座制覇を達成[1]。ルートに固定したロープの総延長は約2,750メートル。設置には延べ6週間かかった[1]。2008年の大量遭難死事件以来3年ぶりの登頂成功事例。

登頂の記録[編集]

  • 2004年初めの時点で、登頂に成功した女性登山家は5人しかいなかった。この5人がいずれも酸素ボンベなしで登頂を果たしたことは特筆に価する。また、この5人のうち3人が下山中に死亡し、残りの2人は他の8000メートル峰で遭難死しており、誰も存命していない[7]
  • 2009年6月、ミシェル・フェイトが山頂からの滑降に挑戦したが転倒して死亡。当時、同行していたスウェーデンのプロスキーヤー、フレドリック・エリクソンは、翌2010年に挑戦を決意するものの、同年8月登頂中に難所であるボトルネックから滑落して死亡[8]。ボトルネックは滑落すると到底助からないとされ、同氏も900メートル滑落した[1]。遺体の回収も困難で、両親の希望もあり遺体はその場所に残された。すぐ横で滑落を目撃したカルテンブルンナーも登頂を断念した[1]。2011年8月カルテンブルンナーらは再びK2にアタックし無酸素登頂を成し遂げたが、カルテンブルンナー自身は4度目の挑戦であり、パーティーには7回目の挑戦となるメンバーもいた[1]

持ち込まれる装備とゴミ[編集]

4人程度のアタッカーに必要な装備は、2011年のゲルリンデ・カルテンブルンナーの北稜登攀のケースでは、無酸素であっても総重量2.2トンに達する(酸素ありの場合は酸素ボンベが加わるので更に重量が増える。食料として500個以上の鶏卵なども含まれる)[1]。一方で他の山と同様にゴミも問題となっている。雪崩のためにK2登頂を断念した写真家のトミー・ハインリヒは、余った時間を利用してK2に廃棄された800キログラムの登山家のゴミを回収した。氷河の一つの場所だけで390キログラムものゴミが回収された[1]

画像[編集]

K2を主題とした作品[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 詳しくは英語版の名前の節を参照。特に「チョゴリ」の名称が現地では使用されていないことについては英語版の脚注8を参照。[リンク切れ]
  2. ^ 一次アタック隊の馬場口隆一、寺西洋治、小林利明、宇津孝男、ナジール・サビルは悪天候のため登頂を断念。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p ナショナル ジオグラフィック, 編纂.「K2 頂をめざして」『NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版』2012年 04月号、ナショナルジオグラフィック社、2012年3月、 ASIN B007JL98CE
  2. ^ a b “Stairway to heaven”. The Economist. (2013年5月29日). http://www.economist.com/blogs/graphicdetail/2013/05/daily-chart-18 2013年5月30日閲覧。 
  3. ^ クルト・ディームベルガー『K2嵐の夏』梅津正彦訳、山と渓谷社、2000年9月。ISBN 978-4635178129。[要ページ番号]
  4. ^ K2 南南東リブ 1996”. 日本山岳会. 2019年1月2日閲覧。
  5. ^ 中国のチベット 事実と数字”. 2018年3月22日閲覧。
  6. ^ レコードチャイナ:世界第2の高峰K2で、11人が遭難死―パキスタン”. Record China. 2012年9月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月2日閲覧。
  7. ^ ジェニファー・ジョーダン『K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死』梅津正彦訳、山と溪谷社、2006年3月。ISBN 978-4635178136。[要ページ番号]
  8. ^ CNN.co.jp:K2登山中のプロスキーヤーが死去 滑走挑戦の途上で”. 2010年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月2日閲覧。

関連項目[編集]